溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 パスポートは持っていた。

 大学を卒業するとき、遥香とロンドンに行ったことがある。

 プランは全部遥香が考えて、遥香が率先して行動した。

「美咲はさ、ぼんやりしてるから気をつけなよ。あのね、『地球の迷い方』なんてコテコテのガイドブックなんか持ってたら、日本人だってバレバレじゃない。私は日本からネギしょってきたカモですって宣言してるようなもんだよ。そういうのがつけいる隙なんだからね」

 だけど、べつに危ない目にあったわけでもなかったし、道に迷って遥香があわてていたときにも現地のお兄さんが「日本から来たのかい?」と、親切にナショナルギャラリーまで案内してくれた。

 入場料がただなのに観客が少なくて、フェルメールの名作を私たちだけで独占できたのはいい思い出だ。

 三年前に作ったきり、出番のなかったパスポート。

 ホログラムに封印された写真の私は今とは違う表情をしている。

 私って、こんなにぼんやりした顔してたっけ?

 今度は私一人で行くんだ。

 期間は一ヶ月。

 次の就職先を決めるのはそれからでいい。

 勝ち組人生なのにもったいないとか、わがままだと言われようと、馬鹿だって笑われようと、私には関係ない。

 私の人生は私のものだから。

 体が嫌がっていたんだ。

 心が泣いていたんだ。

 ごめんね、私。

 さあ、羽を伸ばしに行こう。

 澄んだ空の下に青い海の広がる南イタリアの街へ。

 青の洞窟のカプリ島。

 世界遺産の街アマルフィ。

 絶景に飛び込んで、身も心も解き放つ。

 そして私は生まれ変わるんだ。

 すべての準備が整った時、会社に辞表を提出した。

 引き留められることもなく、たまっていた有休の消化で退職日も早まった。

 私が決めれば、私の思うように世の中は動いていく。

 さようなら。

 短い間でしたが、ありがとうございました。

 八月下旬、日付の変わった深夜の羽田空港を飛び立ったとき、窓の下に夜景が広がっていた。

 宝石をちりばめたような、なんて陳腐な言葉しか思い浮かばなかった。

 あの中の一つでも、私の心に残っていたなら……。

 ううん、違う。

 もう、いいじゃない。

 頑張ったんだよ、私。

 真っ暗な東京湾を旋回しながら上昇していく飛行機の中で、薄い雲にまぎれて消えていく東京の街を見下ろしながら、私はそっと涙を拭いていた。

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