溺愛アフロディーテ 地中海の風に抱かれて
 暗闇の中で彼がつぶやく。

「怒れるじゃないか」

 え?

「あんた、怒れるじゃないか」

 ゆるい左カーブを曲がる。

 街灯に照らされて彼の横顔が浮かんでは消えていく。

「いい子でいると疲れるだろ。もっと怒ったっていいんじゃないか」

 その横顔は少しだけ少年のような優しさをたたえていた。

「そうやってもっとミケーレにも言ってやればいいんだよ。金持ちとか、そんなの関係ないだろ。もっと自分の意見を言って、これは嫌だ、あれがしたいと要求を突きつけなくちゃ」

 彼はまるで私のことをなんでも知っているかのように、私の心をほぐしてくれた。

 たしかにそうだった。

 いい人、いい子、そう言われてきた。

 でもそれは自分の意見を自分で押しつぶして、全部他人の言いなりになってきたからなのだ。

 そして、何も言えない無口な心をかかえた大人になってしまったのだ。

「日本ではそれでもやって来れたかもしれないし、むしろその方がほめられたかもしれない。でも、ここはヨーロッパだ。そんなメンタルじゃ、通用しないし、誤解されるだけだ」

 何も言い返せない。

 言おうとする言葉が浮かんできては渦を巻いて引っ込んでしまう。

 涙が浮かんできてしまった。

「泣いても何も解決しないぞ」

 強がって見せようとすればするほど涙があふれてきてしまう。

 彼が思いがけないことを言った。

「あんたの代わりに俺が慰謝料ふんだくってやるよ」

「どういうことですか」

「インセンティブ・ボーナスっていうのがあるからな。ゴールを決めるごとにいくら上積みって、そういう契約になってるわけさ」

 だからさ、と彼が私の方を向く。

「あんたのためにゴールを決めてやるから、そしたら一日俺につきあってくれ」

「前、見て下さい。あなたとそんな約束はしたくありません」

「コーヒーを飲むくらいならいいだろう?」

 私は黙っていた。

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