政略結婚は純愛のように~狼社長は新妻を一途に愛しすぎている~
今井由梨
北国ではまだ少し肌寒い春の日、加賀隆之と由梨の結婚式は盛大に行われた。
加賀家のしきたりに従って白無垢を身につけて俯く由梨は美しかった。
いつもは清楚に一つまとめにしているだけのまっすぐな髪を丁寧に結い上げて、純白を表す真っ白な衣に負けないくらいの透き通る頬をわずかに染める由梨は、初雪の中に凛と咲く一輪の花を思わせる。
隆之は瞬きも忘れて彼女の横顔を見つめていた。
彼女を初めて見たのは六年前のちょうど今頃、東京からの新しい社長を迎えた日だった。
その日は季節外れの雪が降り、寒さには慣れているはずの隆之でさえうんざりとするほどの吹雪だった。
ましてや、雪には慣れていないであろう新社長は案の定、薄いスプリングコートの中で仏頂面だった。
明らかに不機嫌なその男の表情に隆之は誰にも気づかれぬようため息をつく。
前任者のやる気のなさも相当なものだったが今回はそれにも増して無気力だと。
けれどすぐに、その無気力男の後ろにシャンと背筋を伸ばして立っている少女がいることに気がついた。
彼女もこの街の雪深さは予想外だったのだろう。
春色のスプリングコートは雪でしっとりと濡れている。
飾り気のないパンプスから伸びる細い脚はストッキングが寒そうだ。
けれど彼女は寒いという様子は微塵も見せずピンと背筋を伸ばして、少し高いよく通る声で挨拶をした。
今井由梨です、と。
まさか、と隆之は自分の耳を疑った。
新社長が娘を連れてくることは承知していた。
聞くところによると以前にもそのような例はあったらしい。
社長が連れてきた娘は大抵、支社に籍を置くがせいぜいがお飾りの受付か秘書くらいしか使い道はない。
そもそも今井財閥の令嬢に働くことができるはずがないのだ。
仕事をするというのは名目上で実際は顔を売り、今井にとって有益な嫁ぎ先を探すための時間稼ぎでしかない。
だから今回も新社長が娘をつれてくると聞いても隆之は大した関心を持たなかった。
どうせ派手なだけのろくに挨拶もできない女がくるのだろうと。
それがまさか、こんなに飾り気の無い少女が来るなんて。
隆之は彼女に並々ならぬ関心を抱いた。
「大学を出たてで右も左もわからない私を支社に迎えていただいたこと、大変光栄に思います。未熟な身ですが一日も早く会社の力になれるよう精進いたします。よろしくお願いいたします。」
隆之の視線の先で頬を真っ赤に染めて腰を折るように深く頭を下げた彼女の声には力があった。
言葉自体は入社時の挨拶として当たり前の文句であったが、そこには彼女の気持ちがしっかりと入っている。
何百人という社員を抱える隆之にはそれがわかった。
そして顔をあげた彼女の瞳に、強い光があるのを隆之は確かに見た。
無気力な父とは違う。
何かを求めて彼女はここにいる。
隆之は、そう確信したと同時に彼女に囚われてしまった。
隆之は由梨を秘書室へ配属した。
父親のサポートをさせるというのは表向きの理由、本心では側に置いてもっと彼女を知りたいと思ったのだ。
もう一つ言うと今井財閥の令嬢として様々な欲や悪意の対象になるかもしれない危うい立場の由梨を近くにいて守ってやりたいという思いもあった。
秘書室には隆之の父の代から加賀家で働く蜂須賀と大学の同期だった長坂がいる。
二人とも隆之がもっとも信頼する社員だ。
彼らならやる気に満ちた由梨を安心して任せられると思ったのだ。
果たして由梨は隆之の予想通り、これまでの令嬢たちとは180度違っていた。
毎日地味なスーツに身を包み、定時よりも少し早く出勤する。
彼女が来るようになってから給湯室はいつも清潔に整えられ、各役員室に生けられている花は活き活きとして持ちが良い。
そのことに隆之が気がつくのにそう時間はかからなかった。
一度、朝早くに秘書室のすべての人間のデスクを拭いているのを目撃したおりに、隆之は尋ねてみた。
誰かにそうしろと言われたのか、と。
「いいえ。」
由梨はきっぱりと首を振った。
「まだ私のできることは少ないですから。…できることをやりたいと思いまして。」
そう答えるときも彼女の背筋は伸びていた。
由梨の父親ほどの年齢である蜂須賀は娘のようにかわいいと目を細め、後輩には厳しい長坂も、"素直で指導しやすい"と気に入った。
なんの取り柄もないと自分で言う由梨だが、秀でたことが一つある。
彼女はとても字が綺麗だった。
一つ一つきちんと整って並ぶ文字はまるで由梨自身を表すようだと隆之は思う。
聞くと、賞状書士の資格を持っているという。
であるならばと、取引先へ出す礼状を任せたところ、これが大好評だった。
今の時代、メールで済ませることもパソコンで良い文を打ち出すこともできる。
現に隆之のところに届く令状の殆どがそうだ。
そんな中にあって心のこもった由梨の手書きの手紙は、とくに年寄りを中心に評判だった。
さすが加賀さんプロに頼んでいるのですかと言われたことは一度や二度ではない。
いやプロには違いがないだろうが秘書室の人間だと言うと皆驚き羨ましがった。
そのことを褒めると由梨は頬を染めて、ありがとうございますと微笑んだ。
その控えめな細い花を摘んで、自分だけの部屋に飾っておきたいと隆之が思うようになるのに時間はかからなかった。
ピアスの跡すらない愛らしい耳に愛を囁き、澄んだ瞳には自分しか映らないようにしてしまいたい。
秘書室へ配属したのは正解だった。
受付などにしてしまっていたらすぐにでも社内の男達の注目を集めてしまっていただろう。
それでも徐々に広まりつつある由梨の評判を下の階で耳にするたびに隆之ははらわたが煮えくり返るような気分になった。
営業部の社員が、"なんとか合コンをセッティングできないか"などと言っているのを聞いた時には、そいつを支店に飛ばしてやろうかなどという普段の自分だったら思いもしないことが頭に浮かんだ。
早く彼女を手に入れて、閉じ込めてしまえと自分の中の凶暴な部分が叫ぶ。
そうすれば少なくとも社内の者は手を出せなくなるだろう。
けれど隆之は由梨の上司だ。
今井家の令嬢であることを考えると、上下関係があるかどうかは微妙なところだが少なくとも彼女はそう思っていることは確かで、その状態にある限り隆之から言うのはフェアではないと、わずかに残った理性が言った。
長坂からさりげなく仕入れた情報によると由梨には男の影はなく、また興味もないようだった。
今時の二十代としては珍しいことだが、今井家の令嬢となれば恋愛は自由ではない。
生真面目な彼女らしく自重しているのかもしれない。
だとすれば。
上司からの邪な気持ちは、慣れない土地で新たな一歩を懸命に踏み出した彼女を混乱させるだけだろう。
焦ることはない。
彼女はまだ若い。
側で慎重に見守っていれば必ずその機会は来る。
そうしていつのまにか五年の月日が経っていた。
加賀家のしきたりに従って白無垢を身につけて俯く由梨は美しかった。
いつもは清楚に一つまとめにしているだけのまっすぐな髪を丁寧に結い上げて、純白を表す真っ白な衣に負けないくらいの透き通る頬をわずかに染める由梨は、初雪の中に凛と咲く一輪の花を思わせる。
隆之は瞬きも忘れて彼女の横顔を見つめていた。
彼女を初めて見たのは六年前のちょうど今頃、東京からの新しい社長を迎えた日だった。
その日は季節外れの雪が降り、寒さには慣れているはずの隆之でさえうんざりとするほどの吹雪だった。
ましてや、雪には慣れていないであろう新社長は案の定、薄いスプリングコートの中で仏頂面だった。
明らかに不機嫌なその男の表情に隆之は誰にも気づかれぬようため息をつく。
前任者のやる気のなさも相当なものだったが今回はそれにも増して無気力だと。
けれどすぐに、その無気力男の後ろにシャンと背筋を伸ばして立っている少女がいることに気がついた。
彼女もこの街の雪深さは予想外だったのだろう。
春色のスプリングコートは雪でしっとりと濡れている。
飾り気のないパンプスから伸びる細い脚はストッキングが寒そうだ。
けれど彼女は寒いという様子は微塵も見せずピンと背筋を伸ばして、少し高いよく通る声で挨拶をした。
今井由梨です、と。
まさか、と隆之は自分の耳を疑った。
新社長が娘を連れてくることは承知していた。
聞くところによると以前にもそのような例はあったらしい。
社長が連れてきた娘は大抵、支社に籍を置くがせいぜいがお飾りの受付か秘書くらいしか使い道はない。
そもそも今井財閥の令嬢に働くことができるはずがないのだ。
仕事をするというのは名目上で実際は顔を売り、今井にとって有益な嫁ぎ先を探すための時間稼ぎでしかない。
だから今回も新社長が娘をつれてくると聞いても隆之は大した関心を持たなかった。
どうせ派手なだけのろくに挨拶もできない女がくるのだろうと。
それがまさか、こんなに飾り気の無い少女が来るなんて。
隆之は彼女に並々ならぬ関心を抱いた。
「大学を出たてで右も左もわからない私を支社に迎えていただいたこと、大変光栄に思います。未熟な身ですが一日も早く会社の力になれるよう精進いたします。よろしくお願いいたします。」
隆之の視線の先で頬を真っ赤に染めて腰を折るように深く頭を下げた彼女の声には力があった。
言葉自体は入社時の挨拶として当たり前の文句であったが、そこには彼女の気持ちがしっかりと入っている。
何百人という社員を抱える隆之にはそれがわかった。
そして顔をあげた彼女の瞳に、強い光があるのを隆之は確かに見た。
無気力な父とは違う。
何かを求めて彼女はここにいる。
隆之は、そう確信したと同時に彼女に囚われてしまった。
隆之は由梨を秘書室へ配属した。
父親のサポートをさせるというのは表向きの理由、本心では側に置いてもっと彼女を知りたいと思ったのだ。
もう一つ言うと今井財閥の令嬢として様々な欲や悪意の対象になるかもしれない危うい立場の由梨を近くにいて守ってやりたいという思いもあった。
秘書室には隆之の父の代から加賀家で働く蜂須賀と大学の同期だった長坂がいる。
二人とも隆之がもっとも信頼する社員だ。
彼らならやる気に満ちた由梨を安心して任せられると思ったのだ。
果たして由梨は隆之の予想通り、これまでの令嬢たちとは180度違っていた。
毎日地味なスーツに身を包み、定時よりも少し早く出勤する。
彼女が来るようになってから給湯室はいつも清潔に整えられ、各役員室に生けられている花は活き活きとして持ちが良い。
そのことに隆之が気がつくのにそう時間はかからなかった。
一度、朝早くに秘書室のすべての人間のデスクを拭いているのを目撃したおりに、隆之は尋ねてみた。
誰かにそうしろと言われたのか、と。
「いいえ。」
由梨はきっぱりと首を振った。
「まだ私のできることは少ないですから。…できることをやりたいと思いまして。」
そう答えるときも彼女の背筋は伸びていた。
由梨の父親ほどの年齢である蜂須賀は娘のようにかわいいと目を細め、後輩には厳しい長坂も、"素直で指導しやすい"と気に入った。
なんの取り柄もないと自分で言う由梨だが、秀でたことが一つある。
彼女はとても字が綺麗だった。
一つ一つきちんと整って並ぶ文字はまるで由梨自身を表すようだと隆之は思う。
聞くと、賞状書士の資格を持っているという。
であるならばと、取引先へ出す礼状を任せたところ、これが大好評だった。
今の時代、メールで済ませることもパソコンで良い文を打ち出すこともできる。
現に隆之のところに届く令状の殆どがそうだ。
そんな中にあって心のこもった由梨の手書きの手紙は、とくに年寄りを中心に評判だった。
さすが加賀さんプロに頼んでいるのですかと言われたことは一度や二度ではない。
いやプロには違いがないだろうが秘書室の人間だと言うと皆驚き羨ましがった。
そのことを褒めると由梨は頬を染めて、ありがとうございますと微笑んだ。
その控えめな細い花を摘んで、自分だけの部屋に飾っておきたいと隆之が思うようになるのに時間はかからなかった。
ピアスの跡すらない愛らしい耳に愛を囁き、澄んだ瞳には自分しか映らないようにしてしまいたい。
秘書室へ配属したのは正解だった。
受付などにしてしまっていたらすぐにでも社内の男達の注目を集めてしまっていただろう。
それでも徐々に広まりつつある由梨の評判を下の階で耳にするたびに隆之ははらわたが煮えくり返るような気分になった。
営業部の社員が、"なんとか合コンをセッティングできないか"などと言っているのを聞いた時には、そいつを支店に飛ばしてやろうかなどという普段の自分だったら思いもしないことが頭に浮かんだ。
早く彼女を手に入れて、閉じ込めてしまえと自分の中の凶暴な部分が叫ぶ。
そうすれば少なくとも社内の者は手を出せなくなるだろう。
けれど隆之は由梨の上司だ。
今井家の令嬢であることを考えると、上下関係があるかどうかは微妙なところだが少なくとも彼女はそう思っていることは確かで、その状態にある限り隆之から言うのはフェアではないと、わずかに残った理性が言った。
長坂からさりげなく仕入れた情報によると由梨には男の影はなく、また興味もないようだった。
今時の二十代としては珍しいことだが、今井家の令嬢となれば恋愛は自由ではない。
生真面目な彼女らしく自重しているのかもしれない。
だとすれば。
上司からの邪な気持ちは、慣れない土地で新たな一歩を懸命に踏み出した彼女を混乱させるだけだろう。
焦ることはない。
彼女はまだ若い。
側で慎重に見守っていれば必ずその機会は来る。
そうしていつのまにか五年の月日が経っていた。