政略結婚は純愛のように~狼社長は新妻を一途に愛しすぎている~
今井本家の由梨の部屋は、由梨が出たときのまま残されていた。
6年前に父について北部へ来たときにあらかたのものは処分したが、それでもベッドとカーテンはそのままにしてあった。
誰も主人がいないにしてはカビ臭くもホコリ臭くもない部屋に入って由梨はぼんやりと窓の外を見た。
6年前は当たり前に毎日見ていた今井家の人工的に整えられた庭はよそよそしく、かつての住人である由梨を歓迎しているようには思えない。
季節が一つ進んだような暖かさにも慣れなかった。
コンコンとドアがノックされて、叔母の今井幸江とその娘で従姉妹の朱里が顔を出した。
敷地内に住んでいるこの親子はいつも由梨の返事を待たずにドアを開けるのが特徴だ。
「なんだ、由梨いるんじゃない。帰ってきたならすぐに挨拶に来なさいといつも言っているでしょう?本当にいつまでたってもぼんやりなんだから。」
順番でいくと末っ子だった父の一つ上の姉にあたるこの叔母は、いつも由梨に口うるさい。
母親を早くに亡くした由梨の母親がわり、朱里とは姉妹のように育てているなどと公言しているが、それは表向きのこと。
いつも由梨は朱里と比べてられて罵られてきた。
朱里と同い年の由梨は地味で引き立て役にはちょうどいいと影で言っているのを聞いたのは一度や二度ではない。
実際、小中高と同じ学校に通った朱里は美人で明るくて、いつもクラスの人気者だった。
"由梨は朱里の影"などとよく言われたものだ。
「お久しぶりです、おばさま。…さっき着いたばかりでして、申し訳ありません。」
「また貴方は、言い訳ばかりして。そんなことで加賀さんの嫁が務まっているのかしら。早々に追い出されないようにして下さいよ。今井の恥になりますからね。」
幸江は濃い化粧の眉を寄せて言う。
父親である今井幸男が死んでもいたって平常運転らしい。
「あらぁ、お母さま。それなら好都合よ。」
幸江の隣で朱里が由梨にだけ見せる意地の悪い顔で言った。
「あんな素敵な方、由梨にはもったいないもの。…伯父様はいつも朱里にとびきりいい縁談を探してやるって言ってたのに。なんだか裏切られた気持ちだわ。」
朱里は拗ねたように言う。
なんでも由梨より先にしなくては気が済まない彼女は、由梨が先に結婚したことが気に食わないようだ。
「貴方、寒いのは嫌いでしょう。」
幸江が呆れたように言った。
「伯父様はかわいい貴方をあんな寒いところへはやりたくなかったのよ。…その点由梨なら、大丈夫。頑丈だもの。」
この家での由梨の呼び名は雑草由梨。
雑草ならどこでも根を下ろすことができる。
「そんなの!適当に理由をつけてしょっちゅう帰ってくればいいだけよ。嫁いだお姉様たちもそうでしょう?お母さまは加賀さんの凄さを知らないから、そんなことを言うのよ。加賀さんって言えば大学の頃から有名だったんだってお姉様たちが騒いでたわ。こちらの商社にいらした時は、祥子お姉様の親友の、えーと、誰だっけ…モデルのマリア!!マリアと付き合ってたこともあるのよ。それもどうやらマリアの方がべた惚れだったって…。」
「貴方もうお爺さまにはご挨拶したの?」
人の夫のゴシップを下品に捲し立てる朱里を遮るようにして幸江は由梨に尋ねた。
祖父は亡くなったときのまま寝室に安置されている。
「…いえ。まだ…。」
本当のことを言うと由梨は祖父に会うのが怖かった。
小さい頃も大人になってからも祖父に会う時はいつも叱られるときだったから。
亡くなった今、そんなことはないといくら自分に言い聞かせても、怖気付く気持ちはなくならない。
こうして屋敷に戻ってくると、隆之に自分に必要だと思うことは自分で決めて良いと言われたあの夜味わった解放感は幻だったのかもしれないとすら思う。
由梨が祖父に会いに行くと、もう話さないはずの祖父がむくりと起き上がって、加賀家に戻ることは許さないと言われ、一生この屋敷に閉じ込められてしまうのではないか、そんな想像すらしてしまう。
「本当にぐすねぇ。ちゃんとご挨拶しなきゃダメじゃないの。」
イライラと勘を立てる叔母に引きずられるようにして由梨は祖父の寝室を目指した。
当たり前のことだけれど由梨が祖父の部屋に入っても由梨が想像したようにはならなかった。
祖父は眠るようにそこにいたが、その表情からは生きていた頃の威厳を思わされるものはもう感じ取れない。
ただ死に召された者だけが持つ何もかもを捨て去った安らかな眠りがあるだけだった。
由梨は、そっと祖父の手に触れてみた。
ひんやりとした感覚が由梨の指先から伝わる。
悲しいとは思わなかった。
ただ、本当に解放された、そう感じた。
6年前に父について北部へ来たときにあらかたのものは処分したが、それでもベッドとカーテンはそのままにしてあった。
誰も主人がいないにしてはカビ臭くもホコリ臭くもない部屋に入って由梨はぼんやりと窓の外を見た。
6年前は当たり前に毎日見ていた今井家の人工的に整えられた庭はよそよそしく、かつての住人である由梨を歓迎しているようには思えない。
季節が一つ進んだような暖かさにも慣れなかった。
コンコンとドアがノックされて、叔母の今井幸江とその娘で従姉妹の朱里が顔を出した。
敷地内に住んでいるこの親子はいつも由梨の返事を待たずにドアを開けるのが特徴だ。
「なんだ、由梨いるんじゃない。帰ってきたならすぐに挨拶に来なさいといつも言っているでしょう?本当にいつまでたってもぼんやりなんだから。」
順番でいくと末っ子だった父の一つ上の姉にあたるこの叔母は、いつも由梨に口うるさい。
母親を早くに亡くした由梨の母親がわり、朱里とは姉妹のように育てているなどと公言しているが、それは表向きのこと。
いつも由梨は朱里と比べてられて罵られてきた。
朱里と同い年の由梨は地味で引き立て役にはちょうどいいと影で言っているのを聞いたのは一度や二度ではない。
実際、小中高と同じ学校に通った朱里は美人で明るくて、いつもクラスの人気者だった。
"由梨は朱里の影"などとよく言われたものだ。
「お久しぶりです、おばさま。…さっき着いたばかりでして、申し訳ありません。」
「また貴方は、言い訳ばかりして。そんなことで加賀さんの嫁が務まっているのかしら。早々に追い出されないようにして下さいよ。今井の恥になりますからね。」
幸江は濃い化粧の眉を寄せて言う。
父親である今井幸男が死んでもいたって平常運転らしい。
「あらぁ、お母さま。それなら好都合よ。」
幸江の隣で朱里が由梨にだけ見せる意地の悪い顔で言った。
「あんな素敵な方、由梨にはもったいないもの。…伯父様はいつも朱里にとびきりいい縁談を探してやるって言ってたのに。なんだか裏切られた気持ちだわ。」
朱里は拗ねたように言う。
なんでも由梨より先にしなくては気が済まない彼女は、由梨が先に結婚したことが気に食わないようだ。
「貴方、寒いのは嫌いでしょう。」
幸江が呆れたように言った。
「伯父様はかわいい貴方をあんな寒いところへはやりたくなかったのよ。…その点由梨なら、大丈夫。頑丈だもの。」
この家での由梨の呼び名は雑草由梨。
雑草ならどこでも根を下ろすことができる。
「そんなの!適当に理由をつけてしょっちゅう帰ってくればいいだけよ。嫁いだお姉様たちもそうでしょう?お母さまは加賀さんの凄さを知らないから、そんなことを言うのよ。加賀さんって言えば大学の頃から有名だったんだってお姉様たちが騒いでたわ。こちらの商社にいらした時は、祥子お姉様の親友の、えーと、誰だっけ…モデルのマリア!!マリアと付き合ってたこともあるのよ。それもどうやらマリアの方がべた惚れだったって…。」
「貴方もうお爺さまにはご挨拶したの?」
人の夫のゴシップを下品に捲し立てる朱里を遮るようにして幸江は由梨に尋ねた。
祖父は亡くなったときのまま寝室に安置されている。
「…いえ。まだ…。」
本当のことを言うと由梨は祖父に会うのが怖かった。
小さい頃も大人になってからも祖父に会う時はいつも叱られるときだったから。
亡くなった今、そんなことはないといくら自分に言い聞かせても、怖気付く気持ちはなくならない。
こうして屋敷に戻ってくると、隆之に自分に必要だと思うことは自分で決めて良いと言われたあの夜味わった解放感は幻だったのかもしれないとすら思う。
由梨が祖父に会いに行くと、もう話さないはずの祖父がむくりと起き上がって、加賀家に戻ることは許さないと言われ、一生この屋敷に閉じ込められてしまうのではないか、そんな想像すらしてしまう。
「本当にぐすねぇ。ちゃんとご挨拶しなきゃダメじゃないの。」
イライラと勘を立てる叔母に引きずられるようにして由梨は祖父の寝室を目指した。
当たり前のことだけれど由梨が祖父の部屋に入っても由梨が想像したようにはならなかった。
祖父は眠るようにそこにいたが、その表情からは生きていた頃の威厳を思わされるものはもう感じ取れない。
ただ死に召された者だけが持つ何もかもを捨て去った安らかな眠りがあるだけだった。
由梨は、そっと祖父の手に触れてみた。
ひんやりとした感覚が由梨の指先から伝わる。
悲しいとは思わなかった。
ただ、本当に解放された、そう感じた。