政略結婚は純愛のように~狼社長は新妻を一途に愛しすぎている~
 気を失った由梨は一旦近くの救急病院へ運ばれたが、命に別状がないことがわかると加賀家が経営する総合病院へ移された。
 二日後に病院のベッドで目を覚ました由梨が隆之に聞いたところによると、隆之、幸仁、芳子の三人が夜通し車を走らせて九和田湖の別荘に着いたのは夜明け前だったという。
 その別荘の前に和也の車を見つけた時は、生まれて初めて神に感謝をしたと隆之は言った。
 けれど部屋に入って、和也が寝ている由梨の首に手をかけているのを見たときは再び目の前が暗くなったと、情けないように笑う隆之を、由梨は信じられない思いでベッドから見上げる。
 忙しいはずなのに、由梨の異変にいち早く気づき、迷いなく東京まで駆けつけて、救い出してくれた。
 奇跡のような人だと思う。
 そしてもう聴くことは叶わないと思った彼の低い心地のいい声にうっとりと目を閉じる。
 和也は、由梨から引き離されたあともわぁわぁと騒いでいたらしい。
 由梨は僕のものだ、お前は触るなと隆之を罵り、父さんと母さんは嘘つきだと号泣した。
 幸仁、芳子夫妻は、和也の由梨を妻にしたいという思いをずっと利用してきたという。
 今井コンツェルンの後継者として認められる男になればその願いを叶えてやると。
 幸仁も芳子も、和也の由梨に対する気持ちなど所詮は気の迷い、広い世界で他の女を知れば由梨などすぐに忘れるとタカを括っていたらしい。
 けれど二人の予想を裏切って和也は由梨に執着し続けた。
 他の生き方を許してもらえない後継者が、哀れな話だと隆之は首を振る。
 同じ名家の御曹司として何か思うところがあるのかも知れないと由梨は思う。
 結局、和也は精神のバランスを崩したということで今井家の息がかかった病院に入院した。
 二度と自由にはさせない、そう約束することを条件に由梨は和也を告訴しないことになったのだ。

「今井和也が間違えたのは、君の意志を確認しなかったことだろう。」

 隆之が静かに言った。
 だれも彼もが由梨の気持ちを無視して話を進めた結果がこれなのだ。
 けれど由梨はそれならば自分も同罪なのだろうと思う。
 そもそもいつも由梨は自分の気持ちを言ってこなかった。
 皆が間違えていたのだ。
 それを隆之が正してくれた。
 
「隆之さん、ありがとうございます。」

 日の光がカーテン越しに柔らかく差し込む窓を背にした隆之に、由梨はもう何度も言った言葉を口にする。

「由梨が無事ならそれでいい。」

 隆之ももう何度も口にした言葉をもう一度言う。
 そしてしばらく逡巡して、もう一言付け足した。
 
「君は俺の妻だ。助けに行くのは当然だ。」
 
 その隆之の声音が少し義務的に聞こえて由梨の胸がコツンと鳴った。
 由梨はうかがうように彼を見る。
 けれど光を背にした隆之の顔は影になりその表情はわからない。
 
「和也氏は確かにやり方を間違えた。…由梨、君はずっと君を道具としか見ていない人達に囲まれて、翻弄されてきたんだ。…そして、今も…。」

「…え?」

 由梨はかすれた声で聞き返す。
 けれど隆之はいや、って呟いて首を振った。

「…今はまだいい。君は体調を整えることだけを考えるんだ。」

 大きな手が由梨の頭を優しく撫でる。
 その感触に、由梨は今まで感じたことのない違和感を感じた。

 さらに数日がたち由梨の退院の許可が出た。
 今井幸男の葬儀から由梨の件までの間に随分と会社をあけた隆之は迎えには来られなかった。
 代わりに彼が手配した迎えの車に乗り込むと車は市内を抜けてある場所に到着した。
 かつて由梨が父と住んでいた今井家の屋敷だった。
 荷物を運んでくれた運転手から、しばらくはここで静養するようにとの隆之からの伝言を聞かされた由梨に驚きはない。
 心のどこかでこうなることを予感していたからだ。
 目が覚めた日に感じた隆之への違和感は結局ずっとそのままだった。
 優しく丁寧に接してくれていたけれど、微笑んでくれていたけれど、それは皆がよく知る"加賀隆之"で。
 由梨だけに見せる彼の姿ではなくなっていた。
 また、帰る場所がなくなった。
 よそよそしく佇む今井家の屋敷を見上げて、由梨はそう思った。
< 55 / 63 >

この作品をシェア

pagetop