政略結婚は純愛のように~狼社長は新妻を一途に愛しすぎている~
「東京で君の伯父さん…今井会長に会ってきた。」
食事があらかた終わりに近づいた頃、加賀が口を開いた。
由梨は食後のお茶のカップを置いて彼を見つめる。
一年前に今井家のトップは祖父から祖父の長男である叔父に変わった。
身内だとはいえもう何年も顔を合わせていない由梨は、叔父の顔を即座には思い出せない。
由梨は加賀の口から自分の今後についての沙汰が降りるのを待った。
どきんどきんと心臓が痛いくらいに鳴った。
「我が社の今井社長が亡くなられてしばらく経つが後継の人事は難航しているようだった。」
加賀が男らしい形の良い眉を寄せて言った。
「先先代からの取り決めで我が社は副社長を加賀家の者が務め、実質的に采配もすることになっているからな。そのような支社の社長など誰もなりたくはないというのが本音だろう。」
由梨は無言で頷いた。
けれど取り決めだから加賀家の者が采配するというのは少し違うと思った。
この厳しい土地で今井コンツェルンのように何百人もの社員を抱える大会社を成り立たせるということは並大抵のことではない。
この街の人々の尊敬を集める加賀家の者でなくては…もっと言えば目の前にいる加賀隆之でなくてはできないことだと由梨は思う。
今井家からいかに優秀な人物がきたとしてもやはり加賀の力なしではうまくはやれないだろう。
それが五年間、加賀の秘書室にいた由梨の感想だ。
けれど由梨はそれを口にはしなかった。
「今井会長は、北部支社は私に任せてもいいと仰った。」
少しの沈黙のあと加賀が静かに言った。 由梨は思わずえっ、と声をもらしたまま、次の言葉が出てこなかった。
それくらい意外な人事だった。
なにせ、設立以来ずっと守られてきた全ての支社の社長は今井家の血縁の者が就任するという伝統が初めて覆ったのだ。
けれど裏を返せばそれだけ加賀隆之という男が今井コンツェルンにとって必要なのだということだろう。
事実、彼が副社長に就任した7年前から北部支社はずっと業績は右肩上がりだ。
「副社長が…社長になられるのですね。」
由梨は確認するようにゆっくりと言った。
「…そうだ。」
加賀が頷く。
由梨はほぅ吐息をついた。
その由梨を加賀が瞳を僅かに細めて見ている。
そして尋ねた。
「君は、どう思う?」
「…私、ですか…?」
意外な加賀の問いかけに由梨は戸惑いを隠せない。
何か重要な場面で意見を聞かれるということは初めての経験だった。
由梨は今井家の娘として自我は抑え、男性に従うことを良しとして教えられてきた。
いつも、大事なことは祖父や叔父たちが決めて、由梨は由梨自身のことですら自分の考えで決めることはできなかった。
けれどここには祖父も叔父もいない。
由梨はそっと背筋を正した。
そして小さく深呼吸をすると加賀を真っ直ぐに見た。
加賀は静かな眼差しで由梨の答えを待っている。
「…我が社にとって最良の人事だと思います。我が社は…私が知る限りですが、ずっと加賀副社長のもと社員が一丸となってきましたから…皆、ふ、副社長だからつきてきたのだと思います。…私も…一社員として、とても嬉しく思います。」
加賀が満足そうに微笑んだ。
まるで、よくできました、とでもいうように。
そしてお茶を一口飲んだ。
由梨はその加賀の微笑みに普段は穏やかで冷静な加賀の意外な一面を見たような気がした。
気高い狼の群れを率いるアルファーのような誇りと揺るがない自信。
それは慢心とは違う、群のものを魅了してやまないものだ。
由梨もしばしその魅力に見惚れる。
けれど加賀はコップを置くと、すぐに穏やかないつもの顔に戻った。
「それで…君の処遇だが。」
加賀の言葉に由梨の背中に緊張が走る。
いよいよ由梨の運命が言い渡される。
十中八九、東京へ戻れと言われるに違いないと由梨は思わず目を閉じて、机の下で拳を作る。
そしてもう、名実共にこの会社のトップに立つ加賀のもとで働くことはできないのだということに自分でも意外なほどの落胆を感じた。
「…今井会長は、君の処遇にも頭を悩ませておられた。」
由梨は目を開いた。
叔父が?
何故だろうと由梨は首をひねる。
てっきり今頃、東京へ連れ戻してさっさと今井コンツェルンにとって有利になる男の元へ嫁がせる算段をしているのだろうと思っていたのに。
「今井社長は…今は君を東京へは戻せないと、おっしゃった。」
もちろん由梨もそれは望んでいない。
東京へ帰って以前と同じように窮屈な暮らしに戻るなどはまっぴらだ。
「そう…ですか…。」
叔父の意図がわからずに由梨は呟くように言った。
加賀も何故由梨が東京へ帰ると不都合なのかという理由については聞いていないのだろう、それ以上は何も言わない。
「君は、東京へ帰りたいか。」
加賀が静かに尋ねる。
由梨は少し考えてから、ゆっくりと首を振った。
今井家と関係のない加賀になら少しくらい希望を言っても問題はないだろうと思った。
「いえ…。」
「なぜ?」
再び尋ねる加賀に由梨は一瞬オフィスにいるような感覚に陥る。
加賀が社員によく使う言葉だった。
なぜそうするのか、なぜその方法なのか、理由を明確にして動け、と。
「と、東京へ帰ったら…お見合いをさせられるような気がします…。今井家はそういう家ですから…。」
加賀が射抜くような視線で由梨を見ている。
由梨は膝に乗せた両手をぎゅっと握りしめた。
「私、この街も仕事も好きなので…。できたらここに残りたいんです。今井のお屋敷を出てアパートを借りて…。」
たかだか自分の希望を言うだけで情けない話だとは思うけれど由梨は緊張で少し息苦しさを感じた。
そしてその由梨の希望は加賀にとっては意外だったらしい。
「なるほど…。」
と、呟いたまま口許に手を当てて逡巡している。
由梨はまた一つ、加賀の意外な一面を見た。
加賀は成り行き上、由梨のプライベートな事情を知る立場にいるが、本来であれば無関係だ。
叔父からの指示を、"君はこうしろ"と言ってお終いにしていいはずなのに。
こうやって向かい合って、話を聞いてくれている。
頼れる上司ではあるが、どこかビジネスライクな考えの持ち主だと思っていたが、実は違うのかもしれない。
「…けれど今そうしてここへ残ったとしても、いずれは呼び戻されるんじゃないのか。」
的確すぎる加賀の指摘に由梨は俯いた。
その通りだと思う。
けれどそれでも、少しでも長くこの街で自由に過ごしていたい。
「それは…そうですが…。」
叔父がなぜ今は東京へ帰ってくるなと言うのか、どういう縁談を考えているのか由梨にはわからない。
一つだけわかるのは、結婚の先に由梨の自由はないということ。
今井家に縁のある家で今井家出身の人間として恥ずかしくないように振る舞い、夫に付き従うだけの生活だ。
由梨はふいに泣きそうになった。
逃れられない運命に心が押しつぶされそうだった。
「…君は。」
加賀が口を開く。
由梨はまるで仕事のミスを叱られるときのような気分になり、身構えた。
君は間違えている、そう言われるような気がして。
けれど加賀から出た言葉は由梨が想像したものとは天と地ほどもかけ離れたものだった。
「君は私の妻になる気はあるか。」
食事があらかた終わりに近づいた頃、加賀が口を開いた。
由梨は食後のお茶のカップを置いて彼を見つめる。
一年前に今井家のトップは祖父から祖父の長男である叔父に変わった。
身内だとはいえもう何年も顔を合わせていない由梨は、叔父の顔を即座には思い出せない。
由梨は加賀の口から自分の今後についての沙汰が降りるのを待った。
どきんどきんと心臓が痛いくらいに鳴った。
「我が社の今井社長が亡くなられてしばらく経つが後継の人事は難航しているようだった。」
加賀が男らしい形の良い眉を寄せて言った。
「先先代からの取り決めで我が社は副社長を加賀家の者が務め、実質的に采配もすることになっているからな。そのような支社の社長など誰もなりたくはないというのが本音だろう。」
由梨は無言で頷いた。
けれど取り決めだから加賀家の者が采配するというのは少し違うと思った。
この厳しい土地で今井コンツェルンのように何百人もの社員を抱える大会社を成り立たせるということは並大抵のことではない。
この街の人々の尊敬を集める加賀家の者でなくては…もっと言えば目の前にいる加賀隆之でなくてはできないことだと由梨は思う。
今井家からいかに優秀な人物がきたとしてもやはり加賀の力なしではうまくはやれないだろう。
それが五年間、加賀の秘書室にいた由梨の感想だ。
けれど由梨はそれを口にはしなかった。
「今井会長は、北部支社は私に任せてもいいと仰った。」
少しの沈黙のあと加賀が静かに言った。 由梨は思わずえっ、と声をもらしたまま、次の言葉が出てこなかった。
それくらい意外な人事だった。
なにせ、設立以来ずっと守られてきた全ての支社の社長は今井家の血縁の者が就任するという伝統が初めて覆ったのだ。
けれど裏を返せばそれだけ加賀隆之という男が今井コンツェルンにとって必要なのだということだろう。
事実、彼が副社長に就任した7年前から北部支社はずっと業績は右肩上がりだ。
「副社長が…社長になられるのですね。」
由梨は確認するようにゆっくりと言った。
「…そうだ。」
加賀が頷く。
由梨はほぅ吐息をついた。
その由梨を加賀が瞳を僅かに細めて見ている。
そして尋ねた。
「君は、どう思う?」
「…私、ですか…?」
意外な加賀の問いかけに由梨は戸惑いを隠せない。
何か重要な場面で意見を聞かれるということは初めての経験だった。
由梨は今井家の娘として自我は抑え、男性に従うことを良しとして教えられてきた。
いつも、大事なことは祖父や叔父たちが決めて、由梨は由梨自身のことですら自分の考えで決めることはできなかった。
けれどここには祖父も叔父もいない。
由梨はそっと背筋を正した。
そして小さく深呼吸をすると加賀を真っ直ぐに見た。
加賀は静かな眼差しで由梨の答えを待っている。
「…我が社にとって最良の人事だと思います。我が社は…私が知る限りですが、ずっと加賀副社長のもと社員が一丸となってきましたから…皆、ふ、副社長だからつきてきたのだと思います。…私も…一社員として、とても嬉しく思います。」
加賀が満足そうに微笑んだ。
まるで、よくできました、とでもいうように。
そしてお茶を一口飲んだ。
由梨はその加賀の微笑みに普段は穏やかで冷静な加賀の意外な一面を見たような気がした。
気高い狼の群れを率いるアルファーのような誇りと揺るがない自信。
それは慢心とは違う、群のものを魅了してやまないものだ。
由梨もしばしその魅力に見惚れる。
けれど加賀はコップを置くと、すぐに穏やかないつもの顔に戻った。
「それで…君の処遇だが。」
加賀の言葉に由梨の背中に緊張が走る。
いよいよ由梨の運命が言い渡される。
十中八九、東京へ戻れと言われるに違いないと由梨は思わず目を閉じて、机の下で拳を作る。
そしてもう、名実共にこの会社のトップに立つ加賀のもとで働くことはできないのだということに自分でも意外なほどの落胆を感じた。
「…今井会長は、君の処遇にも頭を悩ませておられた。」
由梨は目を開いた。
叔父が?
何故だろうと由梨は首をひねる。
てっきり今頃、東京へ連れ戻してさっさと今井コンツェルンにとって有利になる男の元へ嫁がせる算段をしているのだろうと思っていたのに。
「今井社長は…今は君を東京へは戻せないと、おっしゃった。」
もちろん由梨もそれは望んでいない。
東京へ帰って以前と同じように窮屈な暮らしに戻るなどはまっぴらだ。
「そう…ですか…。」
叔父の意図がわからずに由梨は呟くように言った。
加賀も何故由梨が東京へ帰ると不都合なのかという理由については聞いていないのだろう、それ以上は何も言わない。
「君は、東京へ帰りたいか。」
加賀が静かに尋ねる。
由梨は少し考えてから、ゆっくりと首を振った。
今井家と関係のない加賀になら少しくらい希望を言っても問題はないだろうと思った。
「いえ…。」
「なぜ?」
再び尋ねる加賀に由梨は一瞬オフィスにいるような感覚に陥る。
加賀が社員によく使う言葉だった。
なぜそうするのか、なぜその方法なのか、理由を明確にして動け、と。
「と、東京へ帰ったら…お見合いをさせられるような気がします…。今井家はそういう家ですから…。」
加賀が射抜くような視線で由梨を見ている。
由梨は膝に乗せた両手をぎゅっと握りしめた。
「私、この街も仕事も好きなので…。できたらここに残りたいんです。今井のお屋敷を出てアパートを借りて…。」
たかだか自分の希望を言うだけで情けない話だとは思うけれど由梨は緊張で少し息苦しさを感じた。
そしてその由梨の希望は加賀にとっては意外だったらしい。
「なるほど…。」
と、呟いたまま口許に手を当てて逡巡している。
由梨はまた一つ、加賀の意外な一面を見た。
加賀は成り行き上、由梨のプライベートな事情を知る立場にいるが、本来であれば無関係だ。
叔父からの指示を、"君はこうしろ"と言ってお終いにしていいはずなのに。
こうやって向かい合って、話を聞いてくれている。
頼れる上司ではあるが、どこかビジネスライクな考えの持ち主だと思っていたが、実は違うのかもしれない。
「…けれど今そうしてここへ残ったとしても、いずれは呼び戻されるんじゃないのか。」
的確すぎる加賀の指摘に由梨は俯いた。
その通りだと思う。
けれどそれでも、少しでも長くこの街で自由に過ごしていたい。
「それは…そうですが…。」
叔父がなぜ今は東京へ帰ってくるなと言うのか、どういう縁談を考えているのか由梨にはわからない。
一つだけわかるのは、結婚の先に由梨の自由はないということ。
今井家に縁のある家で今井家出身の人間として恥ずかしくないように振る舞い、夫に付き従うだけの生活だ。
由梨はふいに泣きそうになった。
逃れられない運命に心が押しつぶされそうだった。
「…君は。」
加賀が口を開く。
由梨はまるで仕事のミスを叱られるときのような気分になり、身構えた。
君は間違えている、そう言われるような気がして。
けれど加賀から出た言葉は由梨が想像したものとは天と地ほどもかけ離れたものだった。
「君は私の妻になる気はあるか。」