政略結婚は純愛のように~狼社長は新妻を一途に愛しすぎている~
「まさか、社長に限ってそんなことはないですよね?」

「うーん…。」

長坂と奈々の話し声が聞こえて、由梨は給湯室のドアの前で息をひそめて立ち止まった。
 今日は午前中から蜂須賀に頼まれたお使いで外に出ていた。
 予定では戻りはまだ先だったのだが一つ案件がキャンセルになったので少し早く帰社したのだ。
 
「私本当に腹が立ってしまって…。下へ行くなり、社長と由梨先輩がうまくいってないのは本当かなんて聞かれたんですよ?失礼にも程があります。」

憤慨する奈々の言葉に由梨の胸がどきりとする。
 その噂は由梨も知っていた。
 隆之の夜遊びが再開したという話だ。
 何人かの社員が歓楽街の高級BARから出てくる隆之を目撃したという話から端を発して、その後も連日のように飲み歩いているという話は瞬く間に女子社員の間で広がった。
 中には綺麗な女性を連れていたという話もある。
 普段は噂話など由梨の耳には入ってこないのだが、秘書室にいると嫌でも目に入る隆之の姿を見るのが辛くて、外へ出る仕事を積極的にこなしているうちに、すっかりと情報通になってしまった。
 それでも夫である隆之のけして愉快ではない話が耳に入るのは、由梨が隆之と結婚したことを良く思わない女子社員からの当て付けのような意味もあるのかもしれない。

「殿が飲み歩いているかどうかは知らないけれど、近頃夜の会合や接待がないのは事実よ。」

隆之の公式のスケジュールを正確に把握している長坂が言う。

「じゃあなんで夜遊びするんですかー!」

あぁーと、奈々が大きくため息をつく。

「女性を連れてたって話もあるんですよ!社長と由梨先輩が結婚してからここ最近は下の子たちも大人しくなってたのに、また騒ぎ出しましたよ!社長なら愛人でもいいなんて言っちゃって!うるさいったらありゃしない。」

「連れてたかどうかはともかく、飲んでいる殿の隣に女がいるのは別に珍しいことじゃないわ。」

長坂が平然として言う。

「奴の場合は、一人で行っても声をかけられるのよ。女から寄ってくるってわけ。誰も一緒に飲んでるとこを見たわけじゃないでしょう?」

「そりゃあ、社長が行くようなお店は普通の社員は行けませんから…。じゃあ、その女の人と社長がとくに親しくはないとして、まさか一夜限りの…ってことはないですよね?」

奈々が最後の方は声を落として長坂に確認するように言った。

「…どうかしら。」

少し間を置いて長坂が答える。

「なんでですか~!?先輩、社長に限って浮気はないっていったじゃないですか!」

奈々が抗議の声をあげた。

「それは奴が普通の状態の時よ。…私としては特に意外でもないんだけれど、ここ最近の殿の動揺ぶりからいくと相当今井さんにはまっているみたいね。…そしてこれもまた最近の今井さんの様子からみても、二人はうまくいっているとは言いがたい…。殿だって人間なんだから、やけになって…ってことも考えられなくはないんじゃない?」

「ええー!そんなぁ!…由梨先輩大丈夫かなぁ…。」

心配そうに言う奈々の声を聞いて、由梨はそっとその場を離れた。
 "由梨が選んでくれ"と言ったときの隆之の真摯な瞳の色からいって長坂が言ったようなことが今すぐに起こるとは由梨には思えない。
 けれど彼が一人で飲んでいると女性が放っておかないというのは本当だろうと思った。
 酒を飲む隆之の隣に綺麗な女の人が寄り添う様子が頭に浮かんで、由梨の胸はきりりと締め付けられるように傷んだ。
 今の由梨にそれをとがめる権利はない。
 そしてこのままいつまでも結論を出せずにぐずぐずとしていたら、いずれは長坂が言ったようになるだろう。
 そうなっても文句は言えない。
 
「それでいいの…?」

ぽつりと呟いて、由梨は非常階段をゆっくりと降りていった。

 一度会社を出て近くの公園を意味もなく一周してから再びビルへ入る。
 日差しは暖かく、汗ばむくらいだった。
 最上階へ昇る途中由梨の乗ったエレベーターが3階で止まりドアが開いた。
 光る数字をぼんやりと眺めていた由梨が視線を落とすと、開いたドアの向こうに立っていたのは隆之だった。
 3階には法人営業部がある。
 そういえば昼前の会議に参加する予定だったと由梨は隆之のスケジュールを思い出す。
 一瞬驚いたような表情を見せた隆之だったがすぐに社長の顔に戻って乗り込んできた。

「お、お疲れ様です…。」

由梨は呟いて、一歩下がった。

「うん。お疲れ様。」

 隆之も答えて由梨の前に立つ。
 きちんと撫で付けられた黒い長めの髪がかかる、スーツの襟が少しだけめくれていた。
 思わず手を伸ばした由梨の気配を感じて隆之が振り返る。

「…なに?」

「あ、あの…襟が…。」

 由梨は俯いて呟く。
 振り返った拍子に、隆之の香りがふわりと由梨の鼻をかすめた。
 少し甘いその香りに、不意に由梨は泣き出しそうになる。
 この香りに今すぐに包まれたい。
 そう強く思った。
 そしてそれと同時に彼を他の誰にも渡したくはないという強い思いが由梨の全身を貫いた。
 彼が自分にしたことがどうだとか、彼がくれた愛が本物だったのかとか、そんなことはもはやどうでもいい。
 彼を、彼の全てを自分のものにしたいという欲求が由梨を支配する。
 ただこの香りに抱きしめられて、またあの甘くて低い声で名前を呼んでもらいたい。
 あの狼の瞳で見つめられたい。
 自信に満ちたアルファーの微笑みで由梨を魅了して、そして由梨の全てを奪ってほしい。
 それが彼の策略でも打算でもなんでもいい。
 どうせもう、自分は彼の魅力から逃れられないのだから。
 
「襟…?…あぁ、ありがとう。」

 そう言って自分で整えてエレベーターを降りてゆく背中をじっと見つめながら、ようやく由梨の気持ちが決まった。
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