リリカルな恋人たち
E.八月五日くもりのち晴れ
E.


入籍前に温泉にでも行こう、という話になって、それを休憩時間に知世に話したら一緒に行きたいと言い出した。

秋の終わりに、知世の知り合いがやってる旅館が二部屋取れた。
四人の休みを調整するのがとても難儀なことだったので、ほんとうにラッキーって思ってすっごく楽しみにしてたんだ。

わたしは出発前にも加瀬くんちに泊まってて、キッチンを借りて朝ごはんを作った。
トーストと卵焼き、ブロッコリーのサラダ。ベーコンとじゃがいものコンソメスープ。

それらを盛り付けたお皿をテーブルに並べて、コーヒーメーカーのスイッチを入れたけれど、加瀬くんは自室からなかなか出てこない。
実は昨夜から、たぶんその前からずっと、執筆のお仕事が遅れている。


「あと一時間か……」


わたしは壁にかけてあるシンプルなアナログ時計を見つめる。
謙介が車で迎えに来る時間が差し迫ってきた。

でも、声をかけていいのかどうか、躊躇ってしまう。

昨日ここに来てからずっと放置されているので、加瀬くんのアルバムを見たり、本棚の本を拝借したり、気ままに過ごしている。

加瀬くんが顔を見せたのは、トイレに行くときだけだった。
わたしは気が散るだろうと思って、何度か、帰った方がいい? と聞いたけど、加瀬くんは頑なに拒否。


〝ここにいて! 明日の朝までには絶対終わらせるから!〟


って、青白い顔して。

手持ち無沙汰なわたしは、なるべく音を立てないように掃除をしたり、音量を小さくしてテレビを見たりしていた。

ソファでうとうとして朝方目を覚ましたら、体に毛布がかかっていて、加瀬くんが顔を見せたとき眠りこけていたことを悔しく思った。

待つのは全然苦じゃない。
ほっとかれるのも別になんとも思わない、んだけど……。


「変なの……」


ひとつ屋根の下にいて、寂しいって思うなんて。
きっとわたしは再会してからずっと、寂しいなんて思わずに過ごしてきた。思う暇もなく、加瀬くんの深くて豊かな愛情に埋もれてきた。
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