リリカルな恋人たち
「でも、今後彼を解放してくれます? 今は彼があなたに夢中になってるだろうから聞く耳持たないと思うんです。熱りが冷めたらでいいので」
「え……」
「じゃないと彼、ますます執筆に身が入らないから。足を引っ張らないでもらいたいんです。有望な作家の未来、あなた潰す気ですか?」


加瀬くんの周りをうろちょろする、邪魔くさい目障りなコバエでも見るような煙たい目で見られ、わたしはほとんど途方に暮れた。

頭が働かない。なんて返せばいいのかわからないのだ。

ただ惰性で、呼吸と瞬きと心臓だけが、なんとか運動できてる状況だった。


「では、あたしはこれで」


平然と言った彼女が、なにごともなかったかのようにとても優雅に小首を捻るような挨拶をして、踵を返そうとしたそのとき。


「僕の大事な人に失礼な口をきくな」


背後から、一際低い声が響いた。
その瞬間、彼女の目が大きく見開いた。


「それから、もう来なくていい」


部屋から出て、ひたひたと裸足で近づいてきた来た加瀬くんは、わたしの隣に立った。


「も、もう来なくていい、って……?」


困惑した様子で彼女が早口で続ける。
笑顔が完全に引きつっている。


「ああ、そうね。お邪魔なら打ち合わせは会社の方で……」
「担当を替えてもらう。できなければ金輪際、三角出版では書かない」


聞いたこともないような、加瀬くんの冷酷な声。
ハッとしたよな歪な笑顔のまま、彼女の表情は完全に静止した。

思いのほかシビアな加瀬くんの言葉の意味を咀嚼するためにか、唇を震わせ、眉根には皺を寄せ、虚ろな目線を右往左往させている。

わたしは加瀬くんのヨレヨレのカットソーの袖を、ちょんと引っ張った。
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