マリッジライフ・シミュレイション~鉄壁上司は妻を溺愛で溶かしたい~
「そろそろ帰りましょう」
「はい」
幾見君とオフィスを出てエレベーターに乗り込む。
彼はあれ以来何も言ってこない。
エレベーターには他に誰も乗っておらず、小さな箱の中に何となく気まずい空気が流れる。
それを消したいのに、何を言っていいのか分からない。
そうしているうちにエレベーターは一階へと辿り着いた。
エレベーターから降り、エントランスホールを通り出入口に近付く。センサーが反応して自動ドアが開き、一気に冷たい風が入ってきた。
「明日はよろしくね。お疲れ様」
そう言って自動ドアをくぐろうとした時、幾見君が足を止めた。
「駅まで送ります」
矢崎さんの待ち伏せ騒動があって以来、私は一人で帰宅してはいなかった。
高柳さんがいない時は駅まで幾見君が送ってくれていて、年が明けから昨日までは高柳さんと一緒だった。
幾見君はきっと気付いている。私が高柳さんの車で帰っていることを。
彼が何も言ってこないことを良いことに、私は彼に甘えていた。
「ううん、もう大丈夫。心配してくれてありがとうね」
「いえ、でも」
幾見君が何か言葉を続けようとしたその時、背後でエレベーターの到着を知らせる音が聞こえた。
エレベーターから降りて来た人の話し声が耳に届く。鈴を転がすような声に、何気なく振り返った。