マリッジライフ・シミュレイション~鉄壁上司は妻を溺愛で溶かしたい~
今思えば黙っていれば良かったのかもしれない。
今後彼とどうこうなる気も、次につなげる気も、この時の私には皆無だったのだから。

「私も去年異動したばかりなんです。でも引っ越しは無かったので助かりました」

運転席の彼はウィンカーを上げながら「そうですか」と相槌を打ち、滑らかにハンドルを切っている。

「新しい職場には慣れるまで大変でしたが、メンバーが良い方ばかりで助かりました。新しい仕事は大変ですが、やり」

「『やりがいがあって楽しいです』―――だろ?」

最後の文章を重ねるように言われ、私は思わず隣を見る。
目を見張って固まっている私の方に、彼は少しだけ顔を向けた。

「っ、」

こちらを向いた冷ややかな物だった。
ほんの数秒視線を向けられただけなのに、その冷たさに背筋が凍り付いた。

(な、なんで……)

そんな冷たい目で見られないといけないのだろう、そう思ったその時。

「よっぽど上の空だったんだな」

「へ?」

思いも寄らぬ彼の言葉に、間の抜けた声が出る。

「同じ遣り取り――食事の時もしたのに、覚えてないのか」

彼がいきなり砕けた口調になったことよりも、その内容に頭が真っ白になる。

「レストランで全く同じ会話をした。俺の職場と異動の話も、君のことも」

「~~っ」

声に出してそう叫びたいのを堪えきれた自分を褒めてやりたい。昔取ったなんとか、ってやつだろう。

「ちなみに俺が君を送って行くことになったのは、“雨が降り出しそう”だからだ」
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