マリッジライフ・シミュレイション~鉄壁上司は妻を溺愛で溶かしたい~
「もう平気なら、送って行こう」
そう口にするとドアの方へ足を向けた統括に、慌てて声を掛ける。
「だ、大丈夫です。自分で帰れます」
ドアまであと二歩、というところで足を止めた彼は、半身をこちらに振り向かせ短く息をつくと
「歩いて帰るのか?終電はとっくに終わってるぞ」
と、わずかに面倒臭げに言う。
ピクリとも上がらない口元と緩まない目元。
デフォルトとなったその“鉄壁上司”の表情に、胸の奥にさざ波が立つ。
「タクシーで帰ります」
挑むような口調で返すと、彼の瞳がかすかに見張られた。
表情に動きがあったことに内心驚いていると、彼はすぐにいつもの鉄鎧を纏ったような顔に戻った。
「台風のせいでタクシーも出払っている。ここも明日は休みだ。定時前に社全体に通達されている。見なかったのか?」
「っ……」
統括からの指摘に、背中がヒヤリとした。
仕事に夢中になるあまり、メールのチェックを怠っていた。入社六年目にもなるのに、新人みたいなミスをしてしまった。外部からの重要な連絡だったら、冷や汗では済まないだろう。会社内の連絡事項で済んで良かった、とホッとする。
「明日の昼まで一人でここに居たいのであれば構わないが、そうでなければ大人しく着いて来い」
言うだけ言うと、前に向き直りスタスタと応接室を後にした彼を、私は慌てて追いかけたのだった。