Drowse
僕が呟くと、途端さっきの金縛りが嘘だったように体が軽くなる。

僕は体を起こしてアップルパイの皿を受け取ると、アイラは嬉しそうに僕を見つめた。

今なら体は動くし、フォークという武器もある。それが分かっていても、僕は目の前にいるこの温和な少女を傷つける気にはとてもなれなかった。

ゆっくりと熱々のアップルパイを口に運ぶ。口にその甘美な味が広がった瞬間、僕の双眸から自然と涙が零れ落ちた。

「だ、大丈夫⁉ もしかして火傷した⁉」



アイラが慌てて尋ねてきたので、僕は涙を拭いながら首を振った。

「いや、大丈夫だよ。ただ、この味が懐かしくて……」

「そう……それならよかったけど……懐かしかった、ね」



そう言いつつ、アイラはどこか拗ねているように見えた。

気になったので、皿をベッドに置いて彼女に尋ねる。

「どうしたのそんな顔をして? もしかして僕は貴方を傷つけたかな?」

「き、傷ついたとかじゃないけど……その、懐かしくて泣いたっていうのが釈然としないというか……」

「……それってヤキモチ?」

「や、妬いてなんかない! どうして私がイブのことなんかで妬かなくちゃいけないのよ!」

「僕、一言もイブのアップルパイが懐かしいなんて言ってないけど」

「ッ……とにかく妬いてないから! 私が焼くのはアップルパイだけよ! そこは勘違いしないで!」



ツンデレの様なセリフを残して、アイラはドタドタと部屋を出て行ってしまった。

あ、今なら逃げ出せたのにすっかり忘れてた……ぼんやりとそう思いつつ、気づくと僕はアイラのアップルパイを平らげていた。

……とりあえず今すぐ逃げ出すのはやめておくか。

さっきの様子を見る限り、アイラは僕を傷つけるような人間には見えない。むしろ端正な外見に反して中身は案外子供っぽいのかもしれない。

それにここから逃げ出すのを躊躇う理由はもう一つある。それはアイラの言う通り、この二日間雨はずっと降り止まなかったことだ。



もし今出て行ったらずぶ濡れになってしまう。だからせめて、雨が止むまでは待つことにしよう。
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