結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
「わ。手が震える」
「失敗したらまた書き直せばいいだけだから」
尚さんはそう言うけど、婚姻届の書き直しはしたくなかった。
ローテーブルに置かれた婚姻届を前に正座しながら、震える手をさする。
すると、見兼ねた尚さんが腰掛けていたソファーから降り、私の体を後ろからすっぽり包み、温かい手で私の手を撫でてくれた。
「細い手だな」
「尚さんの手はゴツゴツしてますね」
人の命を救っている外科医の手。
「この手で杏のこと、一生守るからな」
耳元で囁かれた言葉と、尚さんの温もりに胸がジンと熱くなる。
「尚さん」
手をゆっくりと解き、尚さんの方に向き直る。
「至らないところは多々あるかと思いますし、許可は出ていませんが、精一杯の努力はしますので、これから末永く、どうぞよろしくお願いします」
出来る限り丁寧に、頭を下げて伝えると、尚さんも床に正座した。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
「フフ。なんか照れくさいですね」
ニヤついてしまう口元を手で隠して笑うと、尚さんは私の手を取り、ゆっくりと顔を近づけてきた。
それに合わせて目を閉じる。
でも、唇が触れ合うより先にスマートフォンが着信を知らせた。
「オンコール?!」
「オンコールか?」
尚さんと同時に机の上に置かれたスマートフォンを見ると、そこには案の定、病院名が記されていた。
尚さんに頷いて見せてから通話ボタンを押す。
「はい、松島です」
『あ、ごめんね。お休みのところ。緊急の検査が出たの』
外来看護師の申し訳なさそうな声。
スマートフォンを耳にしたまま、掛け時間を確認すると針は午後9時を指していた。
「これから向かいます」
「今日の当直は伊東か」
通話を終え、振り向くと、尚さんは私の上着を取ってくれていた。
「伊東は患者を呼ぶからな。早く帰れるといいけど…あまり遅くなるようなら呼んでくれて構わないよ。運転、代わってやるから」
尚さんのマンションからは車でおよそ10分。
オンコールに備えて自前の軽自動車を近くの駐車場に停めていた。
「早く帰れるよう祈っておいてください」
やんわりと運転代行を断り、鞄から鍵を取り出し、玄関へと向かう。
「気をつけて。行ってらっしゃい」
尚さんに見送られることに慣れていないから、なんだかくすぐったくて、気持ちが浮ついてしまう。
でも、仕事だ。
病院到着後、必要な検査機器の電源を入れて、景気付けに冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出し、一気に飲む。
「くぅー!効くー!よしっ!」
両頬を手で叩き、白衣を羽織り、検査室から処置室へ。
夜間の病院は静かで暗く、何度来ても自分の足音にさえビクビクしてしまう。
灯りが煌々とついている処置室まで足早に進み、扉を開けると、えんじ色のスクラブ白衣姿で血だらけの患者さんの処置をしている伊東先生の背中が目に入った。
「あ、松島さん。ごめんね。そこに検体と伝票、置いてあるからお願い」
「はい」
短く返事をした時、伊東先生の顔がこちらに少し動いたような気がした。
もしかしたら尚さんから私のことを聞いているのかもしれない。
そう思いつつ、看護師さんの目線の先を追い、血液の入った採血管に手を伸ばす。
「吐血の患者で輸血が必要です。すぐに血液型を調べてください」
伊東先生の声にも「はい」と短く返事をし、急いで検査室に戻り、検査を進めていく。