結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです


『ちょうど同型の輸血パックが使用されずに保管されているのがあるから、それでクロスマッチをお願いしますって、伊東先生から』


検査報告をしてすぐに、病棟から連絡があった。

そういうことなら、と、未使用の血液製剤を取りに行き、早速、クロスマッチを始める。


プルルルル


あと少しで検査が終わる。

そう思った頃、電話が鳴った。

催促だろうか。


「はい。検査室です」


焦る気持ちを抑え、電話を取った。


『外来です。あの、これから虫垂炎疑いの患者さんが運ばれてくるそうなんですけど、残っててもらえますか?』


輸血の催促ではなかったけど、また急患とは。

伊東先生も看護師さんも大変だ。

当然、私だって、ここで「帰ります」なんて言えるわけなくて。

「分かりました」と短く答え、クロスマッチを終えた血液製剤をナースステーションに持って行く。


「輸血のパックです。お願いします」

「はーい、って、あ。当番、松島さんだったの?」


ナースステーションの奥から出て来たのは日沖香織(ひおきかおり)さん。

眼鏡が知的かつオシャレな印象を受ける日沖さんは、古河さんと同い年の看護師だ。


「これ、よろしくお願いします」


血液製剤を差し出すと、丁寧に両手で受け取ってくれた。


「はい。たしかに受け取りました…って、それより」


日沖さんに手招かれたので一歩近付くと深妙な感じで言われた。


「聞いたよ。古河さんのこと」

「え?」


突然の話に驚くと、日沖さんは辺りをキョロキョロと見回してからさらに小声で言った。


「古河さん。松島さんに宣戦布告したんでしょ?」

「どこでそれを?」


聞くと食堂での一件が噂になっていると教えてくれた。


「でもそれ、ごめん。私たちのせいなの」

「どういうことですか?」


日沖さんに聞くと、今度は普通に話し始めた。


「古河さん、嶋津先生に意見したり、質問しにわざわざ医局に行ったり、時にはボディータッチなんてのもあったから、嶋津先生は松島さんと付き合っているから行動には注意した方がいい、って言ったのよ。そしたら……」

「なにしているんですか?」


背後から声を掛けられ、日沖さん共々驚いて体がビクッと反応してしまった。


「あ、古河さん。おつかれさまー。ラウンド終わったの?」


日沖さんが話題を逸らすかのように古河さんに話しかけた。


「終わりました。ていうか、それ。輸血のパック。急患のでしょ?早く落としてあげた方がいいんじゃないの?」


古河さんが日沖さんの手元にある血液製剤に視線を移した。


「古河さんが戻って来てからにしようと思ってたの。ちょうど良かった。ここ、よろしくね。私、行ってくるから」


日沖さんはそう言うと、古河さんの横を通って病室へと行ってしまった。


「患者と噂話。どっちが大事なんだって話だよ、まったく」


古河さんが憮然とした様子でひとりごちた。

患者のことで話していた可能性もあるのに、あえて『噂話』と言ったのは私たちの話を聞いていたからに違いない。


「すみません」


頭を下げて謝るも、首を横に振られてしまった。


「松島さんはきちんと自分の仕事した上で話しかけられたんだからどっちかと言ったら被害者でしょ。謝るべきはあなたじゃないわよ」


正論を言われてしまうとなにも言い返せない。

もっとも、なにを言われても私は言い返せないけど。

でも、そんな自分を変えようと思ったのではないのか。


「あの。話しかけてもいいですか?」


これ以上話すことはないと言わんばかりにカルテチェックしている古河さんに、気持ちを奮い立てて話しかけた。


「なに?」


手を止め、私の方を向いてくれた古河さんに、もう一度、別件で頭を下げる。


「長田さんの時。出過ぎた真似をしてすみませんでした」

「長田さん?あぁ。ハハ。何事かと思えば、背中さすってたこと?それも謝る必要ないと思うけど?」


笑われたことに多少傷付きながら頭を上げると、古河さんは柔らかい笑顔で首を傾げ、私を見上げた。


「ねぇ。松島さんはどうして謝るの?もしかして嶋津先生になにか言われた?あの時、私がおしぼり持って行ったところ見てたから。『患者のことは看護師に任せろ』とか?ううん。嶋津先生はそんなこと言わないわね」


その通りなので黙っていると、古河さんは眉根を寄せて微笑んだ。


「松島さんはさ、もっと自分に自信を持っていいんじゃない?というより、自分の行動に自信と責任を持つべきだと思う。反省は大事だし、今回のことは必要ないと思うけど、あとで謝るくらいなら手は出さない方がいい。嶋津先生のことも。ダメならダメって言わないと、調子乗ってる、って思われるかもしれないし、私みたいに頑固な人間は嶋津先生が既婚者だとしても、本気で奪いにいくわよ」

「今、嶋津先生のことは……」


関係ないと言いたかったけど、その言葉は飲み込み、別の言葉で答える。


「ダメです」


小さな声だけど目を見て、ハッキリ伝わるように言うと、古河さんは満足そうに満面の笑みを浮かべた。


「ちゃんと言えるじゃない」

「はい。言えました。なので、これで諦めてくれますか?」

「ううん」


笑顔で即答されることは想定外で、言葉に詰まってしまった。


「ごめんね」


見兼ねて古河さんは謝罪の単語を口にしたけど、それこそ「謝るくらいなら手を出さないべき」なのではないだろうか。


「あ」


反応に困っていた私の前で、古河さんが窓の方を向いた。


「サイレンの音」


言われて耳を澄ませてみると、たしかに遠くからサイレンの音が聞こえてきた。


「急患、運ばれて来るんだよね?」


古河さんに言われて、頷き、色々とふに落ちない部分はありながらも、患者さんにはまったく関係ないことだと自分に言い聞かせて、外来へ続く階段を駆け降りていく。


「右下腹部痛の10代の患者です。お願いします」


ちょうど、救急隊が腹部を痛がる患者さんを運んできた。


「血算、生化、凝固に血型のオーダー」


事前に伊東先生が指示を出してくれていたおかげで、指示を待つことなく、到着してすぐに採血が施行。


「お願いします」


外来の看護師さんから検体を受け取り、検査室に戻る。


「スー、ハー」


気持ちは切り替えたつもりだけど、念のため大きく深呼吸して、顔を叩き、意識を検査に集中。

血液を処理し、測定することおよそ40分。

全ての結果が出揃ったことを外来に連絡すると、CT等の検査と照らし合わせて、虫垂炎と診断され、スタッフが揃う日勤帯でのオペが決定したと看護師さんが教えてくれた。


『でもね、可能なら術前検査やっておいて欲しいの。すぐにオペに入れるように。だから追加の検査と、心電図。ポータブルでお願い出来る?あと、さっきの患者さんの輸血、足りないみたいなの。今、血液センターに頼んでいるから届き次第、クロスマッチお願い』

「どのくらいで届きますか?」

『1時間くらいって言ってたわ』


今は午後11時。

心電図を取り終え、検査室に戻って追加検査を処理しても、血液製剤が届くまではまだ30分以上ある。


「疲れたな」


体も、脳も、心も。

今はなにも考えたくない。

ガチャン、ガチャンと検査機器の規則正しく動く音に少しだけ……と、机にうっぷして目を閉じた。


< 11 / 37 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop