結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
翌朝。
早めに出勤して伊東先生を探したけど、急変患者の対応中で会えなかった。
検査室の方も朝から忙しくて、気が付いた頃には12時を過ぎ、昼食にありつけたのも14時過ぎ。
伊東先生の退出時間を気にしている余裕すらなかった。
「ふぅー」
前日の深夜業務に加えて、午前中の忙しさ。
古河さんのことを考えてしまったせいでろくに眠れていないのも相まって、疲労感が優り、体が鉛のように重い。
食堂の椅子に腰掛ける時、大きなため息が漏れてしまった。
「今日は特別忙しかったもんね」
外来の定年間近な看護師である菊田さんが同情の目を向けてくれた。
でも忙しかったのは技師だけではなく、看護師、そして医師も、だ。
「お疲れさま」
低い声に振り向くと、外来診察を終えた尚さんが立っていた。
「お疲れさまです」
菊田さんと声を揃えて答えると、尚さんはそのまま私の隣に座った。
「あら。ツーショット。珍しいわね」
朗らかに笑った菊田さんに苦笑いで答えてから隣を見ると、尚さんはあからさまに不機嫌そうな顔をしている。
「なにかトラブルでも?」
疲労とは違う様子に菊田さんも気が付いたようで、尚さんに声を掛けた。
それを受けて、尚さんは箸を持つ手を止めてこちらを見て言った。
「昨日。伊東となにがあった?」
「伊東先生ですか?」
予想しなかった人物の名前が出たことで声が裏返ってしまった。
「なにかあったんだな?」
裏返ってことが恥ずかしくて、口元を覆っただけなのに、尚さんは確信を得たように詰め寄って来る。
「いえ」
思い当たることはないと手と首を同時に横に振った。
「むしろ用があるのは私の方でして。あ、もしかして、伊東先生から何か伝言を頼まれていますか?」
「いや。だが、用とはなんだ?」
尚さんの眉間にはっきりとした濃いシワが寄っている。
なにか誤解しているようだ。
「昨夜呼び出された時、伊東先生が検査室まで来てくれたようなんですけど、私寝ちゃっててお会い出来なくて。結局何の用でいらしたのか、気になっているんです」
早口で状況を説明すると、尚さんは重いため息を吐いたあと、静かに呟いた。
「無防備過ぎるな」
「え?」
うまく聞き取れなくて聞き返すと、菊田さんが代わりに答えてくれた。
「検査室は外来や病棟と距離があるにしても、スタッフ以外の人が入ってくる可能性もなきにしもあらずだから、無防備に寝たりしたら危険よ」
「たしかに、そうですね」
いくら眠たくても、寝るならせめて施錠をしなければならなかった。
用があればPHSを鳴らしてくれるのだから。
「今後気を付けます」
「うん。そうね。ということで、嶋津先生。松島さん反省しているんだから許してあげましょう?」
菊田さんが気を利かせて未だに不機嫌の尚さんに声を掛けてくれた。
にも関わらず、尚さんは仏頂面で、黙々と昼食を食べている。
「嶋津先生」
気遣ってくれた菊田さんに申し訳なくて、小声で呼ぶと、尚さんも小さな声で言った。
「『可愛い寝顔ですね』」
「え?」
菊田さんと声が重なった。
思わず菊田さんの方を向くと、菊田さんも私の方を見て、それから「ブー」っと吹き出した。
「あはは。なんだ。そういうこと」
「どういうことですか?」
教えて欲しいと聞き返すと、菊田さんはお茶を一口飲んでから尚さんの方を一度見て、少しだけ声を潜めて教えてくれた。
「嶋津先生はね、伊東先生に婚約者の寝顔を見られたことを拗ねてるのよ」
「そうなんですか?」
思わず尚さんに確認するように聞いてしまった。
それを受けて顔を背けられたので、当たりなのだろう。
「独占欲が強いのね」
菊田さんが私の心の声を代弁した。
「松島さんも大変ね」
菊田さんの同情の声に首を横に振る。
「いえ。素直に嬉しいです」
「あらあら。お熱いこと」
茶化されると恥ずかしくて俯いてしまう。
そんな私に菊田さんは忠告をくれる。
「仲が良いのはステキなことだけど、院内ではきちんと一線を引いて接しないとね。みんながみんな、私のように広ーい心を持ってるわけじゃないし、嫉妬だってある。問題が起きた時、共倒れになることだってあり得るんだから」
菊田さんは明るく話してくれているけど、内容は重い。
今まで尚さんが嫉妬を露わにしなかったから露呈しなかっただけで、聞く人によっては、私たちの今のわずかな会話だって気分を害すものになるのだ。
もし喧嘩にでもなったら、仕事にも影響が出るかもしれない。
それは患者にとって最悪の事態だし、周りは迷惑するし、私たちだって居づらくなる。
注意を受ける時もそうだ。
夫の前で注意したら気まずくなるかもしれないなんて余計な配慮をされたら、たまらない。
結婚後も同じ職場で仕事を続けるのなら、院内では余計に関わらない方が妥当だ。
「以後、気を付けます」
菊田さんに言うと、菊田さんは頷いてから、今度は黙って食事をしている尚さんの方を見て言った。
「それと嶋津先生。こんな若くて可愛い子を嫁にもらうんだから、男が近寄ってくることくらい、覚悟しておかなきゃダメよ」
「菊田さん。その心配は無用です。むしろ嶋津先生の方がモテるから」
心配だ、と言おうとしたけど、古河さんのこともあるし、菊田さんに注意されたばかりだ。
言葉を飲み込むと、菊田さんは呆れ顔で微笑んだ。
「あなたたち、それだけお互いを想っているなら、1日でも早く婚姻届出して、法で縛ってもらいなさいよ」
菊田さんはそれだけ言うと席を立ち、外来へと戻って行ってしまった。
「法で縛る、か。面白いこと言うな」
ついさっきまで不機嫌だった尚さんが笑っている。
それはそれで良かったのだけど……。
「お互い身の振り方を気を付けなきゃいけませんね」
「なぜ?今まで通りでいいんだよ」
それこそ……
「どうしてですか?」
菊田さんの話を聞いていなかったのかと言うように尚さんの方を向くと、お茶を一気に飲んでから答えをくれた。
「仕事をする上で大切なのは周りの機嫌を伺うことじゃないからだ」
尚さんに言われてドキッとした。
ご機嫌取りをしているつもりはなくても、周りの目を気にしているのはたしかだから。
「でも、仕事をする上で人間関係が大切なのも事実ですよね?」
「そうだな。だが、杏も俺も医療現場で働く身として、患者第一に考えて行動していれば文句は言われない。いや、言わせないんだよ」
全く持っての正論なのだろう。
でも、私にはそこまでの力量も、意志の強さもない。
だから肯定することは出来なくて、ただ黙っていると、尚さんは立ち上がり、私の頭に軽く手を乗せた。
「杏はそのままで十分だよ。今まで目立ったトラブルもないじゃないか。それより、伊東のこと。気になっているなら聞いておこうか?」
「あ、えっと」
もし業務に関わることだとしたなら直さなければならない。
「お願いします」
「分かった。前に話していた食事の件もあるから連絡してみるよ。でもその前に」
話が途切れたことが気になり、尚さんを見上げると、尚さんは身を屈めて、私の耳元で話を続けた。
「一昨日、呼び出されて婚姻届にサイン出来なかっただろ?だから今週末、家においで。一緒に書こう」
週末ならオンコール当番はないし、予定もない。
行くのは全然構わないのだけど、職場で話すようなことではないし、なにより近い。
「周りの機嫌は気にしなくても、少しは周りの目は気にしましょうよ」
小声で訴えた。
でも、尚さんは素直に応じてくれる人ではない。
「人の目のないところならいいんだな?」
そう言うと、色気漂う流し目で私を見て、周りを見てからまた身を屈め、囁いた。
「週末。たっぷり可愛がってやるから。覚悟しておけよ」
低くて甘い囁きに、耳から全身に熱が広がる。
「もうっ!」
と尚さんの腕を軽く叩くことで戒めたけど、それすら余計なことだったかも、とあとで反省した。
しかも、前日になって急用が出来たと言われてしまい、婚姻届のサインは延期。
結局、伊東先生との食事の方が早くやって来た。