結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
伊東先生と古河さん

伊東先生と尚さんが約束した場所は、病院の最寄駅から10分ほどの位置にある一軒家のような外観をしたレストラン。

完全予約制で席が6つしかない一見さんお断りのフレンチレストランは伊東先生の行きつけらしい。
 

「お待たせしてすみません。松島です」


先に来て席に着いていた伊東先生に頭をペコっと下げると、伊東先生も立ち上がった。


「謝らなくて大丈夫です。僕も今来たところですから」


本当かどうか。

分からないけど、伊東先生の柔らかな笑顔が緊張していた気持ちを和らげてくれる。


「どうぞ」


わざわざ向かいの席の椅子を引いてくれた。

伊東先生の紳士的な振る舞いがとても自然なので
慣れていない私のぎこちなさが目立つ。


「すみません」


重ね重ね謝ると、伊東先生は困ったように微笑んだ。


「大丈夫ですから。そんなに緊張しなくても」

「そう、ですよね」


緊張している場合ではないと、背筋を伸ばし、伊東先生と向かい合う。


「改めまして。嶋津先生とお付き合いさせてもらっています松島杏です。今日はお時間頂き、ありがとうございます。ちなみに嶋津先生は急患対応中で遅れるそうです」

「分かりました…って、フ。ハハ」


きちんと挨拶したはずなのに、伊東先生は顔を背けて声を出して笑い始めた。


「あの」


どうして笑われているのか、気になって声を掛けると伊東先生は横目でこちらを見て言った。
 

「親じゃないんですから、そんな堅苦しい挨拶必要ないですよ。それに松島さんのことは前から知っています」


今まで接点はないのに。

知られているのは何故なのか聞こうとしたところに、シェフと思われるコック帽を被った50代から60代くらいの男性が満面の笑みでやって来た。


「伊東先生。ようこそいらっしゃいました」

「今日はよろしくお願いします。が、その前に。お体は問題ないですか?検診にはきちんと来てくださいよ」


伊東先生の言葉で患者さんであることは容易に想像出来た。

でも私は知らない。

当然だ。

伊東先生と私は別の病院で働いているのだから。

それに検査技師は、検査データと患者名は一致しても、患者名と顔が一致しないことの方が多い。

にも関わらず、シェフは私のことを覚えていた。


「あなたは心電図を取ってくれる方ですよね?N病院の」
 
「あ、はい。ですが、すみません。覚えていなくて」


正直に謝ると、シェフは微笑み、フォローしてくれた。
 

「一日に何人も何十人も検査するんでしょう?覚えていなくて当然ですよ。でも患者側は覚えているものなんです。態度が悪かったり、優しくされると特にね」


私の場合はどちらだろう。

身に覚えはなくてもどこかで患者さんに嫌な思いをさせていたかもしれない。


「気分を害してしまったのなら謝ります。すみません」


頭を下げて謝罪することを選んだ。

でもこれもまた違ったようだ。


「真田さん。僕の大事な人をイジメないでもらえますか?」


伊東先生の声に顔を上げると、真田さんと呼ばれたシェフは「ハハ」と大きな声で笑ってから私を見た。


「ごめんなさい。謝らないで大丈夫ですよ。あなたはとても優しい方でした。伊東先生の病院から転院して間もない頃、隣のベッドに寝ていた意識のない患者に、私と同じように優しく声をかけ、私と同じように丁寧に検査の説明をしていたのを聞いて、感心しました」


それは特別なことではない。


「先輩に教わった通りにしていただけです」


意識がないように見えても聞こえている場合はあるから、急ぎでないなら、一般の人と同じように検査をするよう言われていたのだ。


「それでも忙しさにかまけて出来ない人は多いですよ。しかも検査終了後には『終わりましたよ。頑張りましたね。お疲れさまでした』と労いの言葉まで掛けてあげられて。声の感じも柔らかくて耳に心地よかった。伊東先生が惚れるのも無理ないと思いますね」


真田さんはそう言うと伊東先生の方を見てウインクした。


「いや、あの」


勘違いしているようだ、と伊東先生と真田さんを交互に見るも、伊東先生は何も言わずに微笑んで返し、シェフおすすめのコースをお願いした。   


「1年半前ですよ」


厨房へと戻って行く真田さんの背中を見ながら、どう誤解を解こうか考えているところで、伊東先生が真田さんの入院していた時期を教えてくれた。


「仕事を覚えるのに一生懸命な時期でしたか?」

「ええ。でも」


相手は覚えているのに、まるで覚えていないというのは申し訳ない。

すると今度は伊東先生がフォローしてくれた。


「患者や家族は僕たちスタッフが思っているよりはるかに僕たちをよく見ているものです。特に松島さんは目を惹くから」

「え?」


どういうことかと聞き返した直後、ポニーテールにしたサラサラの黒髪と真っ赤な口紅が似合う美人のウェイトレスさんが食前酒のシャンパンを運んできた。


「こんばんは。伊東先生はお車ですよね?ノンアルコールにしておきました」
 

ウェイトレスさんはそう言いながら伊東先生の方にグラスを置いた。


「それなら私も」

「アルコールは飲めないんですか?」   


聞かれて首を横に振る。


「それなら遠慮なく飲んでください。帰りは嶋津先生も松島さんも、ちゃんと家まで送るつもりでいますから」


そう言われてもひとりで飲むのは味気ない。

尚さんはまだ来そうにないし。


「では食前酒のシャンパンだけ頂いて、あとはソフトドリンクにします。えっとソフトドリンクはなにがありますか?」


テーブルのそばに立ったままのウェイトレスさんを見上げて聞いた。

その瞬間、目力のある大きな瞳に睨みつけられ、言葉に詰まってしまう。

そして今度は露骨に視線を外された。

いったい、私が何をしたのか。

困惑している横でウェイトレスさんは伊東先生に話しかけた。


「女性を連れて来られるのは初めてですね。お仕事関係の方ですか?」


声のトーンは柔らかいけど、あからさまな詮索に、ウェイトレスさんは伊東先生に好意を寄せているのかもしれないと思い、先ほどの視線に納得がいった。


「彼女は僕の大事な人だよ」

「え?あ、あの、それはちょっと」


なぜまた誤解を招くような言い方をするのか。


「違いますから」


慌てて訂正するも、私の声は一旦厨房の方へと下がったウェイトレスさんには届かず。


「ドリンクメニュー。置いておきますね」


怖いくらいの満面の笑みでメニュー表が渡された。


「私、二度とここに来れない気がするんですけど」


ウェイトレスさんの背中を見ながら言うと、伊東先生は肩をすくめた。


「良かったんですか?」


気になって伊東先生に言ってみたものの、首を傾げられてしまい、言葉を飲み込む。

だって「彼女、先生のこと好きですよね?」というのは、私が言う立場ではないし、あえて誤解を招く言い方をした伊東先生が気付いていないはずないから。

首を左右に振り、伊東先生が手にしたのと同じようにシャンパングラスに手を伸ばすことにした。


「あ。これ、バカラのグラスだ」

「シェフはガラス製の食器が好きで、こだわっているんです。これからの食事も全てガラス製の食器が出てきますよ。でも、よくバカラだと分かりましたね」


重厚感のある六角形のステム、フラットカット、旗艦モデルのアルクールは最もバカラらしいシャンパンフルート。

ガラス好きにはすぐに分かる。

でも手にするのは初めてで、グラスを360度観察する。


「泡の立ち方がすごく綺麗ですね」

「松島さんも綺麗ですよ」


低めの声にドキッとして、グラスから伊東先生の方に視線を移すと、先生は私を真っ直ぐに見つめていた。


「あの」


目線のやりどころに困り、視線を彷徨わせると、伊東先生は「すみません」と言って、視線をグラスへと向けながら話し始めた。


「松島さんはこのグラスのように品のある、穢れのない美しさを放つ方です。とても目立つ。ただ、美し過ぎて、男は簡単に手を出せないんですよ。繊細そうで壊してしまいそうだから」


そこまで言うと伊東先生は私の方を真っ直ぐに見て続けた。


「壊れてないですか?」

「大事にしてもらっています。ただ、私は自分に自信がないので。私より綺麗で、性格も良くて、仕事も出来る女性が尚さんのこと好きだったりするのを聞くと、不安になってしまいます」 


それが恋愛というものなのだろうし、尚さんのことを想っている人は多いから今まで気にしないようにしていたのだけど、どうしてだか、古河さんの存在が妙に不安を煽る。


「それなら僕にしますか?」

「え?」


話しているうちに俯いていた顔を上げると、伊東先生は背筋をピッと伸ばした。


「僕はモテません。かれこれ3年、恋人いません。でも付き合った暁には好きな人の幸せだけを考え、記念日にはサプライズを用意します。仕事より恋人を選び、不安なんて感じさせないほど恋人を優先します。そんな重いくらいの幸せ、欲しくないですか?」


テレビで見る通販番組のような語り口と、満面の笑みを見て、口元が綻んだ。


「あぁ。やっと笑ってくれた。松島さんには笑顔の方が似合いますよ」

「ありがとうございます。嬉しいです。ただ、恋人より仕事は優先した方が立場的に良いかと」


素直な感想を伝えると伊東先生は照れたように後頭部を掻いた。    


「伊東先生は優しいですね」

「よく言われます」


おどけた感じの即答がまたおかしくて、つい笑ってしまう。

こんな私のために三枚目を気取らなくてもいいのに。


「それに伊東先生はモテますよ。今も、ほら」


横目でチラッとウェイトレスさんの方を見ると、露骨に視線を逸らされた。

言わずにおこうと思ったけど、時折感じる視線は明らかに私たちのことを気にしていて、私も気になっていた。

にもかかわらず、伊東先生は彼女ではダメだと言う。

スタイルも見た目も頭抜けているし、なにより伊東先生のことをとても好きだというのが伝わってくるのに。


「どうしてですか?」

「どうしてですかね?好きという感覚が不思議なくらい起きないから、ですかね。なので、松島さんにひとつお願いをしてもいいですか?」


そう言うと伊東先生は私の方に手のひらを差し出してきた。

手を出せ、ということなのだろうと判断した私はおずおずと手を差し出す。


「綺麗で柔らかい手ですね」


優しく手が包み込まれた。

尚さんとは違う感触に違和感を覚えた次の瞬間、伊東先生は私の手の甲に唇を当てた。


「?!」


突然のことに驚き過ぎて声にもならない。


「笑って。それか、恥じらう真似をして」


伊東先生に言われて、これはウェイトレスさんを諦めさせる演技なのだと気付き、ニヤッと笑って見せる。

それなのに直後、「ブーッ」と吹き出されて、恥じらう真似ではなく、本気で恥ずかしくなった。


「もう。なんでこんなことさせるんですか。尚さんが見たら勘違いするし、諸々バレますよ」

「ごめんなさい。でもバレていいんです。どんな形であれ、諦めてくれたらそれで。僕は…古河さんのことが好きだから」


少しの間が気になったけど、それより気になるのは。


「こがさん?伊東先生が好きなのは看護師の?古河さんですか?」


しつこいくらいに確認すると、伊東先生は困ったように微笑んだ。


「もしかして松島さんに告白すると思いましたか?」

「とんでもない」


私は自分自身がモテないことを知っているし、これ以上、関係性を複雑にしたくない。


「でもそういうことでしたら、この役。古河さんに頼めばいいのに」


キスされた手の甲にチラッと視線を落とすと、伊東先生はおしぼりで丁寧に拭いてくれた。


「本当にすみませんでした。ただ、この前の当直の日、僕が検査室に行ったの覚えていますか?」

「え?あぁ、はい。あの時は大変失礼しました。お見苦しいものをお見せして。それと白衣ありがとうございました」


今更だけどお礼を伝えると、伊東先生は思い出したかのように顔を背け、笑った。


「笑われるほど、寝顔ひどかったですか?」


尚さんには『可愛い寝顔ですね』って言ったようだけど、皮肉だったのかもしれない。


「もしかして、よだれでも……」

「いえ。その心配はないです。本当に愛らしい寝顔でした。でも、それを嶋津先生に言ったら」


思い出し笑いをする伊東先生は、横目で続きを待つ私を見て、小さく咳払いをした。


「すみません。嶋津先生の怒りに震える様子を思い出したら笑えてしまって。いや、でも、本当に愛されているんだな、って思いましたよ」


言い終えるやいなや、視線を下げた伊東先生からは気落ちした様子が窺えた。


「どうかなさいましたか?」


気になって声を掛けると、ノンアルコールのシャンパンをひと口含んでから話し始めた。


「あの日、ナースステーションで古河さんと松島さんが話しているのを聞いてしまったんです。それでいてもたってもいられなくて。頃合いを見計らって松島さんを訪ねたんです」


どういう意味なのか。

詳しく聞けば、古河さんが伊東先生の3年前にお付き合いされていた元カノだと教えてくれた。


「彼女は僕と別れる少し前からずっと一途に嶋津先生を想っているんです。でも一度として告白はしていないし、そんな素振りも見せない。それなのに先日の話を聞く限り、婚約者が現れたことを知り、告白しようと決心した。嶋津先生の松島さんに対する想いは他人が踏み込めるようなものではないのに」


どうやら伊東先生は古河さんのことを心配しているようだ。

私としては、古河さんに対して積極的なイメージがあるから伊東先生の話は意外だったのだけれど。


「もしかして、伊東先生は古河さんが告白する理由をご存知なんですか?」

「えぇ」


でも、私の疑問には答えてくれない。

というより正確には憶測でしかないから話せないらしい。


「ただ、僕の予想が正しければ、嶋津先生のご両親は確実に古河さんとの仲を取り持つはずです」


"ご両親"という単語に、不安が胸に渦巻いた。

しかも私ではなく、古河さんを選ぶと言う。

挨拶に行ってからひと月弱。

尚さんはご両親に私の話をしていると先日言っていたけれど、今だに再会が叶わないのは相応の理由があるからなのだろう。

その理由に古河さんが関わっているとなると話はややこしくなる。

尚さんが前に古河さんを評価していた話の内容にはここで納得がいっても、ふたりの関係はどの程度のものなのかも分からないし、伊東先生が古河さんと大学で知り合っているなら、当然、尚さんとも以前から面識があるはずなのに、尚さんは話してくれなかった。


「聞いてもいいですか?」


ふたりの関係性くらいなら教えてくれるかもしれない。

伊東先生の方を向いた時、タイミング悪く尚さんが来てしまった。


「悪い。遅くなって」

「いえいえ。楽しくお話ししてましたよ。ね?」


伊東先生に話を振られて一瞬間が空いてしまった。

でも、すぐに頷くと、コース料理が運ばれてきて、雑談を含む、普通の会話と食事が始まった。


「話の続きが気になるようならいつでも連絡して」


帰り際に伊東先生からプライベートの連絡先が手書きされた名刺を頂いたけど、タイミングを逸した今、何から聞いたらいいのか。

よく分からなくなってしまった。



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