結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
せっかくのフレンチの味もほとんど覚えていない。
伊東先生が送ってくれるという申し出は尚さんが断り、タクシーに乗り込んだはいいけど、私の気持ちは上の空。
「杏…杏?」
何度か呼ばれてハッとした。
「すみません。なんですか?」
「伊東とは俺が来る前まで、なにを話していた?と聞いたんだが、どうした?具合悪いか?」
「いえ。大丈夫です。それで、えっと……」
尚さんが来るまでの会話の内容を聞かれていたのだ。
尚さんが学生の頃の話は、尚さんが来てからで、旅行が趣味という伊東先生の話もデザートを食べている時で……。
「覚えていないのか?」
尚さんは呆れたように笑っているけど、肝心な部分はしっかり覚えている。
ただ、尚さんには話せないことだから。
「そうだ。シェフが伊東先生の患者さんだって話をシェフを交えて話していました」
「他には?」
聞かれてなにを話そうかと頭をフル回転する。
その中で一番聞きたいことを口にすることに決めた。
「尚さんのご両親のお話が出ました。伊東先生は尚さんのご家族のことをご存知なんですね」
「あぁ。学生の頃は互いの実家に泊まりに行ったり来たりしてしたからな」
仲が良いことは学生の頃の話を聞いているときに感じていた。
今も懐かしむように目を細め、口元を緩めている。
でも聞きたいのはそこではない。
「尚さんのご両親にはいつ頃会えそうですか?」
緩んでいた尚さんの口元が引き締まった。
「うちの両親が顔合わせのことを気にしているので」
慌てて付け加えるように言うと、「そうだよな」と呟き、赤信号で止まったのを機に私の方を向いた。
「親とはきちんと話をしている。ただ、ちょっとゴタゴタしてて、巻きこむわけにもいかなくて。ろくに話も出来ず、本当に申し訳ない」
謝って欲しいわけではない。
「頭、あげてください」
「ごめんな」
いつになく弱々しい尚さんの声が胸を締め付けた。
「私に出来ることがあれば遠慮なく言ってください」
嶋津家の嫁になるのだから、と思い切って、力になりたいことを口にした。
でも、尚さんは首を横に振る。
「家の問題だから」
「関わらなくて良い、と?」
あえて続きを言葉にすると、尚さんはゆっくり頷いた。
「そう、ですか。ハハ」
私は何のために嫁ぐのだろう、と思ったら、乾いた笑いが起きた。
名ばかりの嫁、とまでは言わないだろうけど、尚さんが松島家に受け入れられたように、私だって嶋津家に受け入れられて、一員として扱って欲しいし、伊東先生と古河さんでさえ状況をある程度理解している感じなのに、私だけが蚊帳の外なんて。
一番そばにいる私だけがなにも知らない状況が、悲しくて、切なくて、やるせない。
もっとも、それを言ったところで、尚さんが私に協力を願い出るとは思えない。
だから……
「尚さんはまだ私と結婚したいと思ってくれていますか?」
根本的な問題を質問した。
「当たり前だろ」
少しだけ苛立ちを含んだ尚さんの声に気持ちが安心するのと同時に、余計なことを言ったかも、と縮こまる。
それでも聞きたいという思いの方が強く、質問を続けることにした。
「尚さんは、どうして私と結婚したいって思ってくれたんですか?」
プロポーズは尚さんのマンションで、ふたりでのんびりテレビを見ている時だった。
『ずっと一緒にいてくれるか?』
とてもシンプルなプロポーズで、プロポーズされたことにすらすぐに気が付かなかった。
後日、改めて『結婚しよう』と言ってくれて、すぐに私の両親に挨拶してくれたけど、告白してくれた時同様、決め手に関しては聞いていない。
年齢的なものだと思っているのは私の勝手な解釈だ。
知りたいなんて言ったら重いし、尚さんにとってみたら結婚したい気持ちが全てだから、理由なんてどうでも良いことなのかもしれないけど。
「知りたいんです。教えてくれませんか?」
「ガキっぽいって笑うなよ」
小声で前置きを口にした尚さんにしっかり頷いて見せると、尚さんは背をもたれながら小声で答えてくれた。
「杏はさ、俺の元気の源なんだよ。杏がいるからこそ頑張れるし、杏の存在が癒しにもなっている。手放したくないと思うのは普通だろう?」
同意を求めるように私の方を見た尚さんの視線はぶれることなく、真っ直ぐ私を見つめる。
芯の通った強い瞳に胸がトクンと反応する。
好きだな、って思う。
尚さんのそばにずっといたい。
この人以外は考えられない。
尚さんの隣を誰かに渡したくない。
尚さんの役に立ちたい。
強い思いが、結婚を決めたことを思い出した。
だからこそ、今のどうにもならない状況が歯痒くてならない。
「私にできることはなんですか?」
別の方向から質問を変えてみた。
でも答えは同じ。
「杏は、そばにいてさえくれれば。あとは信じて待っていてくれればそれでいい。ご両親にも待たせて申し訳ないが、近いうちに必ず話すから。約束するよ」
「そうですか。そういうことなら、分かりました。親には上手く話してみます」
なんて。
聞き分けのいいことを言えば、尚さんはほっとするのをわかって言ってみるのだから私は弱い。
もっとも、今更、事を荒げたいわけでもないし、喧嘩したいわけでもないから、これでいいのだけど、なんだか疲れた。
そばにいたいと言われておいてなんだけど、尚さんのマンションの前にタクシーが着いても、私は降りることをしなかった。
「すみません。今日はこのまま帰ります」
「体調悪いのか?それなら送る…」
「いえ」
尚さんの申し出を最後まで聞かずに断った。
「家に帰って休みますから、大丈夫です」
「そうか」
聞き分けがいいのは尚さんも同じなのか、それとも笑顔が功を奏したのか。
尚さんは運転手さんにお釣りは要らないと一万円札を渡すだけ渡し、タクシーから降りて行った。
「大丈夫ですか?」
頭と心が疲弊して、窓ガラスに頭をもたれている私を、車内ミラーで確認した運転手さんが心配して声を掛けてくれた。
「すみません。大丈夫です。でも」
このまま帰宅して親に『泊まってくるんじゃなかったの?ケンカでもしたの?』と問い詰められたら、なんて答えたらいいのか分からない。
両親には今日、尚さんと食事に行くことを伝え、明日が休みだから泊まって来るとも話しておいたから。
仮病を使うのも無駄だろう。
病気ならなおのこと、医師である尚さんのそばにいる方が安心なのだから。
それなら……
「あの、運転手さん。ごめんなさい。戻ってもらってもいいですか?」
「彼のマンションですか?それともフレンチのお店?」
聞かれてどちらも違うと答える。
「ではどちらに?」
「N病院に。お願いします」
病院と聞いて、余程具合が悪いと思ったのか、運転手さんは病院の入り口ギリギリにタクシーを付けてくれた。
「大丈夫ですか?」
優しい気持ちに後ろめたさを感じながら笑顔で会釈し、裏口から入る。
こんな時、立ち寄る場所が職場というのはかなり切ないけど、頼れる友達は実家に住んでいるか、遠くで一人暮らしをしているか、結婚して家庭があるか、のどれかだから遅い時間に連絡することは憚れる。
鍵を持っていて良かった。
あとは緊急の検査が入り、当番の技師長が呼ばれて来ないことを願うばかりだけど、今日の当直医は基本的に検査が必要な患者の受け入れは拒否し、他院に回す医者だから呼び出されることはないだろう。
それでも、灯りがついていることに当直のスタッフが気付いたら言い訳できないので、暗闇の中、体を横たえられる程度の椅子を静かに並べ、物音を立てないよう慎重に横になる。
「はぁ」
なにやっているんだろうと心底虚しくなる。
寝返りも出来ないほど狭く、寝心地の悪い即席椅子ベッドで肩身を狭くして寝るくらいなら、すべてを吐き出す覚悟で実家に帰ればよかった。
尚さんに対してもそうだ。
家のことに巻き込みたくないのは、私を気遣ってくれているからなのに、勝手に疎外感を感じて凹むなんて何様だろう。
「あーぁ…」
自己嫌悪と寝心地の悪さが相まって、眠ることすら出来ない。
時刻を確認するがてらメールボックスを開いてみるけど、尚さんからの連絡は特にないし、私からメールすることも特にない。
仕方なく、日の出とともに病院を出て、深夜から早朝まで営業しているカフェで濃い目のコーヒーを飲み、頃合いを見て帰宅することにした。
「あら。早かったわね」
母に言われたけど、具合が悪いと嘘ではない嘘をつき、日曜日の丸一日を休息に当てた。
でも、なにもスッキリしない。
週明け早々、検査機器は壊れるしーー。