結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです


「ついてないなぁ」


ひとりごちると、額に汗をかきながら故障してしまった機械の対応に追われている技師長が大きく頷いた。


「こういう日に限ってスタッフが足りないんだよな」


機械に強い香山さんは有給休暇中。

関谷さんは超音波検査でエコー室にこもりっぱなしで、代わりに来てくれていたパートさんも午前中で帰ってしまった。
 

「午前中の外来が終わってから壊れたのがせめてもの救いか」

「そうですね」


"検査結果はその日のうちに"をモットーにしているので、午前中の外来から出る検査のほとんどを午前中のうちに結果報告しなければならない。

検査機器を置いていないクリニックなどでは"結果は次回の診察の時に"というようにしているから、必ずしも結果を急ぎで出す必要はないのだけど、結果次第で投薬量や治療方針が決まる患者さんがいる当院では、急ぎで結果を出すことは重要で、機械トラブルはなるべく避けたい問題なのである。


「直りそうですか?」


エコー室から戻ってきた関谷さんが技師長に問いかけた。

でも技師長は首を振るばかり。


「業者と電話でやり取りして出来る限りのことをやってみたが、どうやら部品を交換しないといけないらしい」

「すぐに来てくれるんですか?」

「早くて1時間半後。作業時間は未定だそうだ」

 
関谷さんと揃って時計を見た。


「今、2時半だから」


到着するのが4時過ぎ。

部品交換後、動作確認して、検査結果が正確に出ることを確認して、それから検査出来ずにいる検体を測定……。


「今日、結婚記念日なのにー!帰るの、何時になるのー?」


関谷さんの悲痛な叫び声が検査室に響いた。


「あのっ。私、残れますから。大丈夫ですよ」

「でも技師長は技師会に出なきゃいけなくて、残れないのよ?ひとりで残るのは不安でしょ?」


たしかに不安だ。

でも機械トラブルは初めて経験するわけじゃないし、専門の業者の方が来てくれるのだからそこは心配ない。


「結婚記念日。楽しんで来てください。私も将来的にはお休みもらうかもしれませんから」


今の状況では結婚記念日そのものが来るかどうか怪しいけど、関谷さんを納得させるためにはちょうどいい。


「分かった。借りね」


納得してくれてほっと胸を撫で下ろす。


「でも、万が一の時は連絡してきていいからね」

「俺からは餞別だ」


技師長は夜食用に、とピザの出前のチラシと業者の方の分と合わせたお金をくれた。


「返金出来ることを期待して」


受け取ったものの、業者が来たのは5時過ぎ。 

作業は軽く見積もっても3時間はかかるとのことだった。


「これはピザ頼むようかなー…」

「え?」 

「すみません。なんでもないです」


大変なのは私ではなく業者の方だ。

時間ばかり気にしたことを謝りつつ、暇を持て余した私は仕事を探す。

でも、日頃から書類整理や片付けを香山さんがしてくれているおかげで特にやることがない。

検査雑誌を読むにしても時間は余るし、考え事しても悶々とするだけ。


「少し席を外してもいいですか?」  


財布とスマートフォンを手に取り、業者の方の了承を得てから一旦、着替えて、院外に出た。  


「寒っ!」


もう11月だ。

陽が落ちてからの外は寒い。

コンビニが近くにあって良かった。

飲み物と何種類かのパンとおにぎりを買い、病院へと足早に戻る。


「あれ?松島さん?」


スニーカーから院内用の靴に履き替えていた時、名前を呼ばれた。

振り返るとそこには当直に来たであろう、私服姿の伊東先生の姿があった。


「あ、伊東先生。先日はありがとうございました」


昨日、悶々とする中、礼儀だと思い、メールでは伝えておいた。

それでも直接言いたくて、軽く頭を下げると、伊東先生は首を横に振り、それから私の服と靴を見て、首を傾げた。
  

「オンコールですか?」

「いえ。機械が壊れてしまって、まだ掛かりそうなのでちょっと買い物に。ちなみに、ですが、夜間の緊急検査も限られたものになりますのでご了承下さい」


万が一、引き継がれないと困るので伝えると、伊東先生は大きく頷いてくれた。


「しかし遅くまで大変ですね。全員で残っているのですか?」


検査室までの廊下を並んで歩く。


「いえ。ひとりです」


伊東先生を見上げて答えると、先生の目線がコンビニの袋に落ちた。


「ひとりでそれ、全部食べるつもりですか?」

「まさか。これは私と業者さんの分です。作業中には食べられなくても、これならどこでも食べられるので。技師長はピザを勧めてくれたのですが」


ひとりでは食べ切れないし、業者の方の手が空くタイミングに届くとも限らないし、院内で食べて行ってもらうしかないことに気付いたのだ。


「業者の方は作業を終えてから本社に戻られるんです。ピザで足止めさせるのは気が引けまして」

「なるほど。優しいですね。松島さんも大変なのに」


私はなにもせずに待っているだけだから大変ではないと、首を横に振る。


「でも、暇でしょう?もし良ければ手が空いた時に話し相手になりましょうか?不安に感じてること、あるんじゃないですか?」


伊東先生に言われて、足が止まってしまった。


「やっぱり」


伊東先生はそう言うと、私の頬にそっと触れた。


「クマが出来てます。眠れていないんでしょう?遠慮なく連絡してくれて構わなかったのに。今からでも医局でこの前の話の続き、しましょうか?」

「いえ。それは大丈夫です」


伊東先生の手から逃れるように一歩退き、手が退いたところで先生を見上げる。


「伊東先生のおっしゃる通り、たしかに眠れてはいないです。でも体調は問題ありませんし、機械が直り次第、やらなきゃならないことがあります。それに頑張って作業してくれている業者の方を残して来ているので、検査室に戻らないと。伊東先生だって、休める時に少しでも休んでください。伊東先生は患者さんを呼ぶって尚さんが言ってましたよ」


一気に話し、最後はからかうように言うと、伊東先生はフッと小さく微笑んだ。


「一途ですね。でも、気丈にしている姿は逆効果です。男は守ってあげたいと思ってしまう」



真っ直ぐな伊東先生の視線に胸がドキッとした。

見つめ合うのが怖くて、視線を外す。


「そうだ」


私が視線を外したと同時に、なにかを思い出した伊東先生は鞄の中から一枚の封筒を取り出し、手渡してきた。


「これ。本当に偶然頂いたものなんですけどね。良ければ僕と一緒に行きませんか?」

「なんですか?」


聞くと、伊東先生は私の背後に視線をずらし、早口で言った。


「検査室で開けてみてください」


言い終えるなり、医局へと足早に向かった伊東先生の態度には違和感しかない。

後ろに誰かいたのかと振り向くと、当直の看護師さんたちの姿が見えた。

どうやらふたりでいるところを見られたらなにを噂されるか分からないと、気を使ってくれたようだ。

優しいし、普通に考えたら何年も恋人がいないなんて考えられない。

古河さんをまだ想っているにしても、なぜ、別れてしまったのだろうという疑問が湧いた。

古河さんが尚さんのことを伊東先生よりも好きになってしまったから、というようなことは先日言っていたけど、古河さんの告白自体も、その後どうなったのか。

お昼休みも意図的に時間をずらされているかのように会わないから、様子を窺い知ることすら出来くて、全くと言っていいほどその後の様子が分からない。

尚さんが話してくれるとはとてもじゃないけど思えないし、当人は今週、学会出張で院内にもいないし、元々連絡は頻繁にやり取りしないから、期待出来なくて。


「はぁ」


うまくいかない状況に心が重くなる。

婚姻届だって、未だにサイン出来ていない。

まるでなにかの力に私たちの結婚が阻止されているかのような錯覚さえ覚える。

かといって、私に出来ることはないのだから、今は、信じて待つしかない。


「戻りました」


検査室の扉を開け、荷物を置いてから機械の様子を伺う。


「すみません。まだ時間掛かりそうです」


業者の方が申し訳なさそうに言った。


「気にしないでください。でも、こういう機会、あまりないので、修理のやり方、見ていてもいいですか?お邪魔にはならないようにするので」

「どうぞ」


業者の方のご好意に感謝し、しばしプロの技術を集中して見ていた。

それは時間にしておよそ1時間半くらい。


「とても良い勉強になりました」


おかげで余計なことを考えずに済んだし、機械の詳しい話を教えてくれたので、同じようなトラブルが起きた時、どう対処したら良いのか知ることが出来た。


「ありがとうございました」


作業を終えた業者の方にお礼を伝え、飲み物と食べ物を手渡す。


「すみません。ありがたく頂戴します」

「気を付けて帰ってください」


業者の方を玄関まで見送り、私は検査室に戻って校正、それから未検査分の検体を処理していく。


「これで良し、と」


あとは検査結果が出てくるのを待つのみで、業者の方もいなくなったことだし、伊東先生に渡された封筒を開けてみよう。

ハサミを手に取り、丁寧に開けると、中に入っていたのはガラス美術館のペアチケットだった。

バカラのグラスに目を留めたことを覚えていてくれたのだろうか。


「綺麗」


同封されているパンフレットにはガラス好きの心を刺激する美しい写真が載っていて、食い入るように見てしまう。

行きたい。

行きたいけど、伊東先生とふたりで行くのはさすがに抵抗がある。

逆の立場だったらかなり不愉快だし、気まずい想いをこれ以上増やしたくない。

残念だけど断わろう。

そう思ってスマートフォンを手にした時、検査室の扉が開き、誰かが入って来た。


「失礼しまーす」

「はい」


入り口の方へ顔を出すと、そこに立っていたのは古河さんだった。


「どうしましたか?」


古河さんに対して色々と思うことがあっただけに、突然の来訪に動揺してしまう。

悟られないように質問を投げ掛ける。


「緊急の検査依頼ですか?それならもう機械直ったので対応出来ますが」

「良かった。じゃあこれお願い出来る?」


手渡された採血管と検査伝票を受け取り、指示に従って早速処理していく。


「検査室も大変ね」


用は済んだはずの古河さんだけど、検査室に居座り、ガシャンガシャンと音を立てて動いている検査機器を覗き込みながら、話しかけてきた。


「機械トラブルで残らなきゃいけないなんて」

「たまに、ですから。年に一度くらいですよ。それに残っているので、呼び出されることもなく、こうして緊急の検査も出来ますから、一石二鳥です」


今日の当番は関谷さんだ。

事前に結婚記念日だと話してくれていたら代わったのに、知らなかったため、そのまま関谷さんの連絡先が書かれた札が外来に掛けられている。

そうだ。

伊東先生は高確率で緊急性のある患者さんを引き当てるようだし、あとでこっそり替えに行こう。

そんなことを思って作業していると、検査室内をまだウロウロしていた古河さんが、私の机の上にある美術館のチケットを見つけた。


「ねぇ、松島さん。ここ。嶋津先生と行くの?」


と声を掛けて来た。


「違います」


測定データを確認しながらなので短く答えた。


「あれ?違うの?デートとかしないの?」


聞かれて久しくデートをしていないことに気付き、手が止まる。



「忙しいもんね」


答えないことが答えだと踏んだ古河さんは、パソコンの前に座っている私の近くの椅子に腰掛けた。


「私もさ。訪問看護とかで忙しくしてて、嶋津先生とは院内でさえあまり会わなくて、アピールする時間も告白するタイミングも逸しちゃってるの」

「そうだったんですか」


またも短く答えると、古河さんが小さく笑った。

それが気になって古河さんの方を向くと、眉根を寄せて微笑んでいた。


「松島さんは余裕ね。私のことなんて気に留めていないみたい」

「そんなことないです。今は検査中だから、すみません。きちんとお返事できなくて。でも、古河さんのせいで、頭の中がぐちゃぐちゃです」


愚痴るようにして言うと、古河さんは声を出して笑った。


「アハハ。言うようになったわね。ううん。元々しっかり自分を持っているものね。見た目がか弱く見えるから周りが先回りして、気を回しちゃうんだけど。でも、心境の変化もあるんでしょ?伊東先生の影響とか」


なぜ伊東先生の名前が出てくるのか、不思議で顔をしかめると、私と伊東先生が一緒にいて、なにかを受け取っていたことが噂になっていると教えたくれた。


「まったくここの看護師は噂話が好きよね。噂話なんて確証もないのに。でも今回のは当たりだったかな?」


そこまで言うと、古河さんは立ち上がり、また私の机の方へと進むと、チケットを手に取った。


「これ。伊東先生からもらったんでしょ?」


答える必要性があるのかわからなくて黙っていると、古河さんはチケットをヒラヒラさせて呟いた。


「守りたくなるような女の子らしい雰囲気の松島さんは伊東先生のタイプだもの。私と正反対」

「お付き合いされていたと聞きました」


古河さんから話を振ってきたので口にすると、柔らかく微笑まれた。


「伊東先生と交流があるのね」

「尚さん…いえ。嶋津先生を交えて、です」


誤解を招くような言い方をされたので、きちんと訂正すると、古河さんはまた私のそばまできた。


「どうして別れたか、は聞いた?その顔だと聞いてないか。なら教えてあげる」


古河さんは先ほどと同じ椅子に腰掛け、伊東先生のご両親に結婚を反対されたのだと言った。


「理由は?」

「聞いてないの。伊東先生も「親を説得出来なくてすまない」としか言わなかったし。まぁ、おおよその理由は検討付いているけど」


そう言うと古河さんは、結婚後も仕事を続けたいと言ったことが原因じゃないかと教えてくれた。


「でもね、その頃は仲もギスギスして、いつからか愛情なんてなくなっていたから、そこを見抜かれたんじゃないかな。ご両親にも、伊東先生にも」


古河さんの話を聞いて、胸が騒がしくなっているのは状況が似ているからだろう。

と同時に気付いた。


「伊東先生が私のことを気にしてくれているのは古河さんとのことがあったから、ですか?」


聞くと、古河さんは切なく微笑んだ。


「結婚なんてうまくいくのが当たり前、反対されるなんてごく一部の人間。そのごく一部に入り込むと辛いわよね。そしてその経験をしていなければ辛い気持ちは分からない。少なくとも伊東先生はその気持ちを知っている。でも」

古河さんは口元から笑みを消し、真剣な目で私を見て続けた。


「辛いなんて思ったらダメよ。心が弱っていると、優しくしてくれるひとに簡単に心を奪われちゃうから」


尚さんのことを言っているのだということは簡単に分かるけど、古河さんにとっては私が伊東先生を好きになれば都合がいいだろうに、どうしてアドバイスなんてくれるのだろう。

それに……


「伊東先生は今でも古河さんのことが好きですから」

「ん?うーん」


古河さんは腕を組み、唸った。


「変だよね」

「え?」

「変だよ。松島さんの受け答え。前にも言ったけど、告白してくれたのが嶋津先生より先に伊東先生だったら伊東先生と付き合ったの?今も、『私は古河さんと違って簡単に心は奪われません』って言うところじゃない?」


まさに古河さんの言う通りだ。

『伊東先生の好きな人は古河さんだから』ではなくて、『私の好きな人は尚さんだけだから信じて待つ』と答えるのが正解だった。

付き合う順番とか、誰と付き合うとか、そんなの抜きにして、尚さんのことを結婚を意識するほど好きなったことだけが真実なのだから。


「訂正してもいいですか?」


確認するように言っても古河さんはピクリとも動かない。

だから勝手に言い直す。


「私が好きなのは尚さんだけです。不安はありますし、今まで悶々としてましたが、もう迷いません。尚さんを信じて、必ず結婚します」

「そうね。でも、私も負けられない。それでもいい?」

「大丈夫です。まだ…大丈夫です」


最後は弱くなってしまったことに、古河さんはまたハハっと笑った。

それから検査データが出揃ったのを確認して、検査室から出て行った。

明るい古河さんの笑い声と存在に救われるなんて。

どちらかが必ず傷付くことになるとしても、古河さんがライバルで良かったとさえ思う。

でも、私は後悔したくない。

すべての作業を終えてから、外来の当番札を自身のものに変え、検査室に戻り次第、スマートフォンを取り出し、まずは伊東先生に美術館の誘いの断りメールを送った。


[残念ですが、チケットは返さなくていいです。嶋津先生と一緒に行って来てください。お土産、楽しみにしています。]


すぐに返信が返ってきたところを見ると、今日はゆっくり出来ているようだ。

このまま急患もなく、落ち着いた夜になることを願いつつ、チケットをありがたく受け取らせてもらい、スマートフォン内の、尚さんの連絡先を開く。

ただ、微妙な雰囲気で別れたままだったから、どんな感じでメールを送ればいいのか悩んでしまう。


「うーん」


検査室に鍵を掛け、帰りの道中から帰宅後もずっと考えているのに、良い文句が思い浮かばない。

これは直接話した方が早そうだ、とメールを諦め、その日は休むことにした。


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