結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
コンコン
慣れない医局と、院内で個別に会うというはじめての経験に緊張が増す。
「はい」
聞こえた声は尚さんのもの。
「松島です」
恐る恐る名乗り、扉を開ける。
「どうぞ。入って」
言われてぎこちなく足を踏み入れ、扉を閉めると、右奥の席に座っていた尚さんが立ち上がり、私の方へと近付いて来た。
「杏」
名前を呼ばれただけなのに、ドキッとしてしまった。
「はい」
白衣姿の尚さんを見上げ、小さな声で答えると、柔らかく微笑み、また私の名を呼んだ。
「杏」
「はい」
2度も呼ばれると、さすがに笑ってしまう。
「良かった。笑顔で」
どんな顔していると思っていたのだろう。
首を傾げると尚さんは言った。
「具合はもういいのか?」
伊東先生との食事の帰り、尚さんのマンションに寄らなかったのは具合が悪かった訳では決してない。
そのことを、尚さんが本気にしたとも思えないのに、体調を気に掛けてくれている尚さんの優しさに、自然と笑みが浮かぶ。
「昨日しっかり寝たので、元気いっぱいです」
小さくガッツポーズを決めて見せると、尚さんは破顔した。
「ハハ。可愛いな。なぁ、抱き締めてもいいか?」
「え?」
いつも確認を取るようなことはしないのに、なぜだろう。
「杏が嫌ならしないから」
職場だということを気にしているのだろうか。
たしかに、そこは気になる。
いつ医局の扉が開くとも分からないし、職場では一線を引くよう、前に菊田さんに言われている。
でも、古河さんの顔が脳裏をよぎり、今だけは尚さんに触れることで、自分のものだという実感が欲しかった。
だから自ら一歩前に出て、そっと背中に手を回す。
すると、一呼吸おいた後、尚さんがしっかりと抱き締めてくれた。
「杏の匂い。安心する」
ため息混じりの声には疲れが垣間見れた。
「出張。お疲れ様でした」
労をねぎらう言葉をかけると尚さんはフッと小さく笑った。
「出張中。変わったことはなかったか?杏は俺のもの、でいいんだよな?」
「特に変わりありません」
でも、「俺のもの」発言には驚いた。
同じようなことを考えていたのだから。
「ふふ」
おかしくて笑うと、腕が解かれた。
「どうした?」
「なんでもありません」
尚さんは不思議そうに首を傾げたけど、私の顔を見て納得したのか、コーヒーメーカーの前に立った。
「なにか飲むか?」
「いえ。すぐ失礼するので」
「え?」
尚さんは私の方を振り返った。
「もう帰るのか?」
「はい。尚さんは少しでも休んでください。出張先から直行で疲れているでしょう?私も昨日夜遅くまで病院にいたので、今日は早く帰ります。また連絡しますね」
それだけ言って部屋を出ようと思った。
でも、呆気ない気がして、もう一言付け加えることにした。
「少しでも顔を見れて良かったです。当直、頑張ってくださいね…って、わっ」
話し終えて帰ろうとした時、尚さんは私の元に来て手を取った。
そして勢いよく抱き寄せると、耳元で囁いた。
「なぜ帰ろうとする?俺が顔見ただけで帰すと思った?」
尚さんの低い声に胸がドキッとする。
ゆっくりと様子を見るために見上げた視線は尚さんの視線と交差し、心の中までも見透かすような鋭い視線で見つめられた。
やましい事はなくても、さすがに耐えられるようなものではなく、逸らすと尚さんの手が私の顎に触れ、強引に視線を戻された。
「逸らすな。それとも、もう俺のこと嫌いになったのか?」
「どうしてさっきからそんなこと聞くんですか?」
質問で返すと、尚さんは私の様子を伺うように真っ直ぐな視線を寄越し、質問を繰り返した。
「昨日、遅くまで病院にいたって、何故だ?当直医は伊東だったよな?」
「はい。でも、珍しく急患はなかったようですし、私は機械の修理で残っていただけです。でもどうして?」
質問の応酬に、ついに尚さんは私から視線を外し、ソファーに腰掛けた。
「伊東と杏のことが噂になっている」
「もう耳に入ったんですか?」
動揺して、後退した私に気付いた尚さんは、立ち上がり、私の腕を引っ張ると、そのままソファーに腰かけた。
「わ、わ!」
ソファーに座った尚さんに引っ張られたので、前のめりになり、足が勝手に前に出る。
つんのめるような姿勢に倒れることを予感して目を閉じると、私の体は尚さんにしっかりと受け止められた。
「あのっ!」
無事なのは良かったけど、ソファーに腰掛けている尚さんの顔はちょうど私の胸元に位置する。
豊満でないにしても、この体勢はいかがなものだろう。
「すごいドキドキしてるな」
尚さんは私の胸元に耳を当てている。
鼓動音はバレバレで、治ることなく、さらに加速していく。
「これは伊東とのことがバレて焦っているのか?それとも俺を意識してくれているのか。どっちだ?」
「尚さんに抱きしめられているからです…って、もう。なんでそんな当たり前のことを聞くんですか?」
伊東先生とはなにもないのに。
噂が余計な不安を与えてしまっているのだろうか。
自己肯定感が強くて、私の気持ちなんてお見通しの尚さんが噂を信じるとは思えないのに。
「俺のこと、好きなんだよな?」
確認まで取るなんて。
私を見上げる揺れた瞳に、胸が切なくギュッと締め付けられた。
だから身を屈め、尚さんの唇にゆっくりとキスをした。
「私が好きなのは尚さんだけです」
言葉にすれば、尚さんは肩の力を抜いた。
「そうだよな。ごめん。疑って。でも良かった」
ギュッとさらに強く抱きついてきた尚さんだけど、本当にどうしたのだろう。
それに、この状況。
誰かが入って来たら大変だ。
「あの、尚さん。離してください」
「嫌だ」
「どうして」
「久しぶりに杏に触れられたんだ。それに、こうしているだけで疲れが吹っ飛ぶ。だからもう少し、このままでいさせてくれ」
疲れているせいだとしても、いつも毅然とした大人な男性が自分の胸元に顔を埋めて甘えている。
完全に母性本能をくすぐられ、そっと尚さんの髪に手を伸ばす。
初めはぎこちなく。
そのうちに愛おしい気持ちを込めて撫でていると、不思議とぎこちなさはなくなった。
「気持ちよくて、このまま寝ちゃいそうだ」
尚さんは私の胸元から離れ、立ち上がり、腕をグッと伸ばした。
どうやら眠気を覚ましているらしい。
「寝ても良かったのに」
無意識のうちに出た言葉を尚さんは聞き、ゆっくりと振り返った。
「じゃあ、今晩ここにいて。一緒に休んで」
「さすがにそれは。誰かに見られたら大事になるので出来ません。でも休みの日なら…って、そうだ。久しぶりにデートしませんか?」
デートの誘いは今まで尚さんが行き先などを決めてくれていたので、私からしたことはない。
「急にどうした?」
やましいことでもあると思ったのだろうか。
尚さんの表情に少し影が差したので、急いで理由を伝える。
「美術館のチケットを伊東先生に頂いたんです。おそらくそれを看護師さんたちは見て誤解したんですけど」
誘われたことは伏せておいた。
「今度の休み、予定が空いていたら一緒に行ってもらえませんか?」
「そうだな。たしかに最近、出掛けていなかったから。いいよ。行こう」
「やった!約束ですよ」
小指を絡ませ、指切りをして約束。
週末、久しぶりのデートに行くことになった。