結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
久しぶりのデート
ピンポーン
午前9時ぴったりに、実家のインターホンが鳴った。
「早くしなさい」
母に急かされ、黒のショートブーツを履き、玄関の戸を開ける。
Vネックのオフホワイト色した総ケーブル編みニットに濃紺の細身のパンツというシンプルかつ綺麗な出で立ちの尚さんが立っていた。
「おはようございます」
挨拶をすると尚さんは「おはよう」と微笑み、背後に立つ母親に目を向けた。
「おはようございます。夕食には間に合うように送り届けます」
「あら。そんなの気にしなくていいわよ。近いうちに結婚するんだから。ゆっくり恋人の時間を楽しんで来なさい」
笑顔の母に対して、私の表情は固まってしまった。
尚さんには結婚が足踏み状態であることを話す、と言っておきながら話せていないことが知られてしまったから。
でも、尚さんは大人だ。
母に和かに微笑むことでその場をやり過ごし、助手席側のドアを開けて乗るよう、スマートにエスコートしてくれた。
それなのに私と来たら、年上の尚さんと並ぶのに、子供っぽく見えないようにと気にした緑のマキシ丈プリーツスカートが足元をもたつかせ、尚さんのスマートさを台無しにしてしまった。
「はぁ」
始まりに転けてしまい、テンションが下がる。
それでも気持ちを切り替えるように寒くなった時に羽織るように手にしていたデニムジャケットを小脇に抱え、裾を踏まないように空いた手でスカートをまとめ、車に乗り込んだ。
「天気が良くてよかったな」
特に気にしていないのか、尚さんの声が明るいのがせめてもの救い。
「そうですね」
気を取り直し、晴天の空を見上げた。
「そうだ。尚さん。飴食べますか?」
「あぁ。もらおうかな」
そう言って、ハンドル片手に、反対の手をこちらに出した尚さんだけど、ベタつくであろう飴玉を手のひらに乗せることに抵抗があった私は、小袋の封を切り、そのまま口元まで飴を持っていくことにした。
「はい。どうぞ。あーん、って、あれ?」
なかなか口を開けてくれない。
もしかしたら、食べさせられるのが嫌なのだろうか。
他人の手が触れたのは食べたくない、とか。
だとしたらやり方を変えるしかない。
新しい飴を取り出すために、持っている飴を口に放り込み、鞄の中にある飴の袋に手を伸ばす。
「杏」
「待ってください。今、新しいの出していますから」
尚さんが好きなぶどう味の飴。
「あった!はい、これ…って、ん?!」
赤信号のうちに飴を小包装ごと尚さんの掌の上に置いたのに、小包装の飴はそのままに、なぜか私の舌の上にあった飴が取られてしまった。
「ちょっと!どんな取り方するんですか?!」
キスして口腔内の飴を取るなんて、誰が想像出来ただろう。
驚きと不意打ちに、心臓がバクバクしている。
「食べるなら食べるって言ってくれたらいいのに」
「ごめんごめん。でも杏が食べさせてくれるなんて思わないし、食べさせてもらうっていうのも初めてだったから」
口を開けることが出来なかったらしい。
「今まで彼女に「あーん」って、して貰わなかったんですか?」
「気を使うし、バカップルっぽいし、どんな顔したらいいか分からないだろ?」
つまり、して貰わなかった、もしくはさせなかった、ということらしいけど、「あーん」と言ってしまった私の立場は、ない。
「すみません」
謝ると、尚さんは運転しながらフッと笑った。
「謝ることはない。さっきは動揺したが、むしろ杏からなら大歓迎だ」
「じゃあ、ランチで実践してみますか?」
提案してみたけど、それは人目があるから避けたいらしい。
「俺の年齢でバカップルって思われるのはさすがにキツいよ。だからふたりきりの時にしてくれ」
「わかりました」
とはいえ、リクエストされるとタイミングが難しい。
ペットボトルの水は無理だし、飴をまだ食べているからガムを渡すわけにもいかないし。
「今すぐにじゃなくていいから。車内だって人目はあるから」
鞄の中をゴソゴソ漁っている私に尚さんは気付いたようで苦笑し、教えてくれた。
「たしかに」
車内は密室だから人目はないと思ったけど、赤信号で停車した時やルームミラーで他車の内部はよく見える。
今すぐ実践しようとしたことを知られて、なおかつ笑われて、気恥ずかしくて、なにも言い返せない。
そんな私の肩に尚さんの手が乗った。
反射的に尚さんの方を向くと、チュッと軽くキスされた。
「なんで?!車内でも人目はあるって言ったばかりですよね?!」
焦る私に、尚さんは意地悪く微笑んで言った。
「瞬間的かつタイミングを見計らえば分からないものだ」
タイミングというのは、今で言えば赤信号から青信号に変わる直前。
尚さんはキスの直後、アクセルを踏んでいた。
「そんな用意周到に出来ませんよ。それこそ経験ないし」
「経験なんてあってたまるか。杏の初めてはすべて俺がもらう。他の男になんて渡さないよ。絶対に」
独占欲の強さに驚きつつも、愛されている実感に胸が高鳴る。
車内で話す、たわいもない話しも途切れることなく続くし、とても楽しい。
あっという間に目的地に到着した。