結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
「うわぁ!綺麗」
エントランスを抜け、目に飛び込んで来たのは、クリスタルガラスがゆらめく高さ約9mのアーチ。
光が反射し、キラキラと眩いばかりの輝きを放つ。
「美術館の方に入ってみようか」
尚さんに促され、メインであるヴェネチアングラス美術館に足を踏み入れた。
「わ…」
絨毯と荘厳な雰囲気を壊さないように、感嘆の声は小さく控えめに。
その中で存在感を放つ15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ貴族を熱狂させたヴェネチアン・グラス約100点に目を奪われた。
綺麗とか、すごいとか、そんな言葉では言い表せない重厚な感じにただただ見惚れる。
時間を気にせず夢中にガラスと向き合うこと1時間。
「すみませんでした」
美術館の敷地内に建てられているイタリアンレストランに入ってから尚さんに謝った。
「尚さんには退屈でしたよね?」
「そんなことはない。謝る必要はないよ」
尚さんは優しいからそう言ってくれるだけで、1時間近く無言でいたことに変わりはない。
謝るなと言われたからしつこく謝るのは変だけど。
それなら。
「ありがとうございます」
お礼に変えた。
「ずっとここに来てみたかったんです」
チケットは頂き物にしても、長い距離を運転してくれて連れて来てくれたことが嬉しかった。
でも、尚さんの表情は冴えない。
「言ってくれたら良かったのに。俺は杏がガラス好きなこと、知らなかったよ。伊東は知っていたんだろう?」
「それはこの前の食事の時、シャンパングラスがバカラなのに気付いて、そういう話になっただけで」
弁解している途中で、尚さんは「分かったからこれ以上言うな」と言わんばかりに軽く手を挙げた。
「すみません」
「いや。この前からそうだが、俺、余裕ないよな。今もただの嫉妬だから。俺の方こそごめん。変なこと言って。悪かった」
「いえ。嬉しいです」
そう言っても、尚さんは不機嫌そのままにプイッとそっぽ向いた。
「俺ばっかりが好きなんだよな」
「そんなこと」
ない、と言いかけて、やめた。
押し問答になりそうだし、愛される喜びに束の間、浸りたかったから。
「注文しようか」
尚さんが話題をランチメニューに向けた。
メニュー表を手に取り、ざっと目を通す。
「オススメはランチセットみたいですね」
前菜盛り合わせ、パスタ、ドルチェの盛り合わせ、ドリンクのセット。
値段も手頃だし、これなら私にも支払えそうだ。
二人分注文し、窓から見える景色を眺める。
「綺麗だな」
「はい。いたるところにガラスが使われているからキラキラしていて、まるでここだけ別世界にいるみたいですね」
日常を忘れられる空間に浸っていると、店内中央でイタリア人歌手によるカンツォーネが始まった。
プロの歌声は耳に心地よく、料理もとても美味しい。
久しぶりに心が満たされている感じがした。
「ここは、私が」
伝票に伸ばしていた尚さんの手を遮るように素早く手を伸ばす。
でも尚さんの動きを制すことは出来なかった。
「ごちそうさまでした」
しぶしぶお礼を伝えつつ、支払いたかったと申し出る。
「ここまで連れて来ていただいたのと、日頃のお礼をしたかったんです」
正直に言うと、尚さんは少し考える素振りを見せたあと、手のひらを差し出してきた。
「手を繋いでミュージアムショップに行こう。お礼だと思って。な?」
そんなことがお礼になるのだろうかと思いながらも、人目もはばからず、手を差し出してくれている尚さん手に自身の掌を重ねた。
しっかり握り返してくれる力強さに、とても安心する。
「そうだ。伊東先生にお土産頼まれていたんです。チケットのお礼もしなきゃいけないし。なにがいいですかね?」
「そうだな」
ガラス細工、食器、アンティークと順番に見ていく。
「あ。これ、可愛い」
アクセサリーのコーナーで目についたネックレスを手に取る。
でも、目的は伊東先生のお土産。
「これなんかいいんじゃないか?」
尚さんが見つけてくれた珍しいガラスペンをインクと合わせて買うことに決めた。
「お会計は私が」
カードを取り出そうとした尚さんを止め、今度こそ自分自身で済ませるべく、ひとりで会計へと向かった。
それからお手洗いを済ませてショップの出口に戻ると、尚さんが園内の地図を広げて見ていた。
「お待たせしました。なにか気になるところでもありましたか?」
覗き込むと尚さんは地図上を指差した。
「ここ。何か作れるみたいなんだよな。行ってみるか?」
「はい」
と答えて地図を頼りに向かったのは体験工房と書かれた建物の前。
「サンドブラストだ。やってみたいです!」
まだ帰りたくなかったし、本当に興味のあるものだったので、興奮気味に言うと、尚さんは一緒に参加を申し込んでくれた。
「サンドブラストはガラスに研磨材を吹きかけて、表面をスリガラス様に削る技法のことです」
スタッフの方から説明を受け、好きなグラスと好きな模様を選ぶ。
それからグラスに選んだ絵柄が浮き出るように専用のシールを貼り付けて、機械で研磨材を吹き当て、シールを剥がしたら完成だ。
「面白そうだな」
説明を聞いた尚さんは意外にも乗り気で、ころんとした球状のグラスに、デザインサンプルの中から季節を先取りしたクリスマスのデザインのものを選んだ。
「迷わないんですね」
「杏は悩むタイプか?」
「いえ」
直感でイイと思った星型の器にプルメリアの花の模様を選び、急いで作業に取り掛かる。
「ふぅ」
集中して作業を進めること20分。
目を休めるために尚さんの方を見ると、私はまだ半分も終えていないのに、すでに作業を終えようとしていた。
「わぁ。さすが外科医。器用ですね」
「細かい作業は好きなんだ。せっかくだからもうひとつ作るかな」
よほどこの作業が気に入ったのか、尚さんは同じグラスと同じ柄を選んでくると、私と同じタイミングでふたつのグラスを完成させた。
「楽しかったな」
満足そうにグラスの入った袋を持つ尚さん。
「杏も楽しかったか?」
「はい」
サンドブラスト体験が出来て、尚さんの笑顔がたくさん見れた。
デートに来て、本当に良かった。
チケットをくれた伊東先生に感謝だ。
「そろそろ帰ろうか」
夕焼けに照らされた庭園を背景に尚さんが言った。
帰宅するまでの時間を考えるとちょうどいい頃合い。
でも、車が走り出す前に。
「尚さん。これ」
車に乗り込んだ直後に手渡したのは、伊東先生のお土産を買う時に一緒に買った小箱。
「ランチで食べたジャムです。美味しかったのでお礼になれば、と思って」
「え?あ…ハハ」
なぜか笑われた。
そのことが解せなくて尚さんを伺い見ると、後部座席から同じ小箱を取り出した。
「俺も美味しいと思って買ったんだ」
味覚が似てきたのか、何種類もあった中から同じ味のジャムが出てきた。
「同じだけど、交換しよう。あとこれも」
ジャムと一緒に渡されたのは別の小さな箱。
「開けてみて」
言われて開けると、中には一瞬だけ手に取って見ていたガラス製のハートのネックレスが入っていた。
「気になっていただろ?」
見てくれていた尚さんの気持ちが嬉しくて、頷き、早速、ネックレスを手に取る。
「うわぁ。綺麗」
夕陽に反射してキラキラ光っている。
「背景や光源によって違った色に見えるらしい」
たしかに夕陽に晒されて暖かいオレンジ色に見える。
夜は何色に輝くのだろう。
「嬉しいです。大切にしますね。でも……」
これではお礼にならない。
気落ちする私に尚さんが気付き、髪を優しく撫でてくれた。
「杏はそばに居てくれるだけで十分なのに。杏が気にするならお礼。また俺からお願いしてもいいか?」
「私に出来ることならなんでも」
「なんでも?」
尚さんが復唱した。
「なんでもいいんだな?」
先程よりも少しだけ低い、艶のある男性的な声にドキッとする。
それでも頷いて見せると、尚さんの手は髪から顔を覆うように添えられ、私の唇に親指が触れた。
「キス、ですか?」
「違う」
言う割に尚さんの指は退かない。
真っ直ぐな視線に捕らえられて鼓動が加速していく。
「離れたくないんだ。今日は俺のそばに居て。帰らないでくれ」
「それでお礼になるのなら」
擦れる声で返事をすると、尚さんの指は外れ、チュッと軽くキスされた。
「お義母さんに怒られるかな」
「夕飯までには帰すって言ってましたもんね。でも大丈夫ですよ。気にしなくていいって母は言っていたので」
分かっていると思う。
それでも連絡は必要だと、尚さん自らが母に電話してくれて外泊の許可を取ってくれた。
「ありがとうございます」
自分から親に外泊を伝えるのは今だに照れがあるので、電話を代わってくれた尚さんにお礼を言うと、アクセルを踏んだ尚さんは横目で私を見て微笑んだ。
「むしろ俺の方こそありがとう。また今日も帰るって言われたらどうしようかと内心ビクビクしてたんだ」
伊東先生との食事の後のことを言っているのだとピンときた。
それと、やたらと私の気持ちを疑っていたことも。
「ごめんなさい。私」
「分かってる」
尚さんは私の言葉を遮った。
「杏のことは分かってるから言わなくていい。それより、俺、余裕ないかもしれないから、覚悟しておいて」
尚さんはその言葉通り、玄関に入るなり、私を求めてきた。
「ちょっと、待って」
せめて荷物を置きたいと訴えても止まらない。
手から荷物は外されても、貪るように唇は塞がれ続ける。
「んっ……あっ…」
止まることのないキスに体の力が抜ける。
支えを求めるように尚さんの首に手を伸ばし、抱き付くと、そのまま横抱きにされて、寝室へと運ばれた。
「ねぇ。尚さ…ちょ…っと…待って」
「待てない」
ベッドに下ろされてからもキスは止まない。
キスをしたまま、尚さんの器用な手が私の服を脱がせていく。
露わになる肌に尚さんの唇が這う。
「あっ…やっ」
敏感な部分に触れられて、体がビクッと反応してしまった。
「もっとだ。もっと俺を感じて」
尚さんは私の肌から唇を離してそう言うと、服を脱ぎ、私を見下ろした。
灯りすらつけていない、暗い室内でも、尚さんの目が熱を帯びていることが分かる。
それと、筋肉質な体も。
「綺麗」
胸元に手を伸ばし、そっと触れると、尚さんがビクッと反応した。
「気持ちいい…ですか?」
「杏の手、冷たいから」
肯定するでもなく否定するでもなく、尚さんは私の手を取り、指一本一本に丁寧にキスを落としてきた。
「温かくなってきたな。あとは体だ」
体はすでに熱を帯び、暑く感じているのに、尚さんはさらに濃密に、体中にキスを落とす。
「もう……」
熱くてどうにかなりそうだ。
目で訴えると、尚さんは応えてくれて、私はそのまま意識を失うように眠りに落ちた。