結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
「杏。おはよう」
尚さんの声で目覚めるのはこれで何回目だろう。
「ごめんなさい。また私、尚さんより先に起きられなかった」
早く起きて朝食の支度をしようっていつも思うのに、毎回同じことの繰り返し。
ショートスリーパーの尚さんが先に起きて、シャワーを済ませ、着替え、私の分と合わせた洗濯も済ませて、朝食を用意。
それからようやく爆睡状態の私を起こしてくれるのだ。
「今度は必ず先に起きますから」
「ハハ。気にしなくていいよ。杏の寝顔見るために早起きしているようなものだから」
そんなことないだろうに、と思いながら、尚さんに手渡されたバスローブを、肌を隠すために引き上げていたシーツに替えて羽織る。
「着替えはバスルームに置いてある。それと朝食は杏の好きなホットケーキだから早くシャワー浴びておいで」
至れり尽くせりで申し訳ない。
私にも出来ること、ないだろうか。
「あ!」
思い出した。
シャワーを急いで浴びて、簡単に身支度を済ませ、甘い香りが立ち込めるキッチンへと向かう。
「早かったな」
「でもタイミングはいいですよね?」
尚さんは出来立てのホットケーキにバターを乗せていた。
「せっかくだから、昨日買ったジャム、つけてみるか?」
「いいですね」
尚さんの提案に乗ると、尚さんがジャムの入った箱を開け始めたので、その間にサラダとスープを運ぶ。
それから向かい合わせに席に着き、ジャムを塗り、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます…って、杏。そんなに急いで食べようとしなくても」
ホットケーキをナイフで急いで切っている私を見て、尚さんは苦笑している。
でも、それもこれも意味があるのだ。
「はい。あーん」
「え?」
尚さんは一転して驚いたように目を見開いた。
「まさかこのために急いでたのか?」
「今はふたりきりですから。はい。あーん」
口元までホットケーキを持っていくと、尚さんは少し躊躇ってから口を開け、パクッと食べてくれた。
「美味しいですか、って、作っていない私が言う台詞じゃないですね」
「そうだな。でも美味しいよ。杏にも食べさせてやる」
「え?え?!」
まさか自分に返ってくるとは予想していなくて、動揺してしまう。
「自分で食べられますから」
「ダメだ。杏の初めてはすべて俺がもらうと言っただろ」
そうかもしれないけど、いざ自分がやられるとなると恥ずかしい。
「ほら、あーん」
尚さんのしたり顔が悔しい。
「いただきますっ!」
早口に言ってから、思い切ってパクッと食べると、たしかにいつもより美味しく感じた。
「甘くてトロける絶妙な柔らかさですね」
「いつもと同じように作ってるんだけどな。それだけ幸せそうな顔をされると嬉しいよ。もっと食べさせてあげようか?」
尚さんの申し出はさすがに恥ずかしいので遠慮させてもらい、すべて平らげてから、食器の片付けを手伝い、一緒に映画のDVDを見て、久しぶりにふたりだけでまったりとした時間を過ごした。
「ご両親に挨拶して行こうか?」
急に泊まりになったことを気にしてくれている尚さん。
「昨日電話してくれたのでそれで十分ですよ」
好意を遠慮し、お昼の時間に帰宅した。
「おかえり」
お昼ご飯を食べながら迎えてくれた両親の顔を見て、また婚姻届にサインするのを忘れたことに気がついた。
「どうかした?」
ハッとして固った私を見て、母が心配して顔を覗き込んできた。
「杏?なにかあった?」
「う、ううん。なにもないよ。ただ…昨日はごめんなさい。いきなり外泊なんてして」
謝ると、母はホッとしたのか、ふに落ちたのか、どちらにしろ柔らかく微笑んだ。
「杏ってば。そんなこと気にしたの?気にしなくていいわよ。お母さんとお父さんだって、結婚前でもよく外泊してたから」
「へぇ。そうなんだ。昔から仲良かったんだね。あ、そうだ。これ。お土産のジャム、尚さんから。美味しいんだよ。食べてみて」
話題をうまいことずらせたけど、頭の中は婚姻届のことを考えている。
サインのこと、尚さんも忘れていたのだろうか。
それとも意図的に口にしなかったのだろうか。
「そういえば、顔合わせの日程はまだ決まらないのか?」
不安に駆られているタイミングで、父が疑問を口にしたものだから、余計に胸が騒つく。
でも、この2日で、愛されている実感を得ていた私は、不安を跳ね除けられるだけの尚さんを信じる心を持っていた。
「尚さんのご実家の方の都合が付かないみたいなの。だからもう少し待っていてくれる?」
きちんと伝えた。
「破談になる、とかはないのよね?」
心配する母に大丈夫だと力強く頷く。
「尚さんは私のこと好きでいてくれているし、私も尚さんと結婚する気満々だから」
笑顔を見せれば両親も分かってくれた。