結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです


「検査技師の松島と申します。本日はよろしくお願いします」

「患者の蒲田です」


55歳男性。

大柄な体格に、彫りの深い浅黒の顔、真っ白な歯。

ダンディーという単語が脳裏をよぎる見た目の持ち主は、丁寧に言葉を返してくれた。

でも笑顔がぎこちない。


「不安、ですよね」

「あぁ。そうだね。痛そうだし、この検査、結果が良くない場合が多いだろう?だからやりたくないって何度も言ったんだよ」


結果は必ずしも悪いわけではない。

ただ、期待を持たすようなことは言えず、黙っていると蒲田さんは眉根を寄せて弱々しく微笑んだ。


「わたしはね、小心者でね。検査の度に緊張して、結果聞くたびにドキドキするんだよ。だから本当はあまり検査とかしたくない。治療のために入院しているのに、寿命が縮まってる気がしてならないんだ」 

「その気持ち。分かります」


パッとこちらを見た蒲田さんの顔が『検査やめてもいいんですよ』と言ってもらえることを期待しているように見えたので、首を左右に振ってから、言葉を捕捉する。


「私自身は幸い健康体で、大きな検査の経験はないですが、家族が具合悪くて検査を受けなきゃいけない時、私も緊張しますし、結果が悪かったらどうしようってドキドキします。だから、きっと検査を受ける本人はそれ以上なんだと思います。怖くて当たり前です。怖いのが普通です」

「怖いのが、普通か」


復唱した蒲田さんに今度は頷いてみせた。


「誰も進んで検査なんて受けたくないです。でも、検査を受けなければ、具合が悪い原因がわからず、余計に辛いし、ずっと不安になります」

「検査を受けても分からないこともあるよな?検査を受けて手遅れなことも……」


医学が進歩しているとは言え、まだ解明されていないこと、治療方法の確立されたいない病気はたしかにある。


「辛い思いをして、助からないなら、って考えてしまうんだ」


蒲田さんの素直な気持ちに、言葉が詰まる。

少しでも安心させてあげられるセリフが出て来たらいいのに、安易な事は言えない。

不安で小刻みに震えながら、俯き、両手を硬く握り締めている蒲田さんに私はなにが出来るのだろう。


「あ!」


突然声を上げたことに蒲田さんが驚いたように私を見上げた。


「すみません。でも、ごめんなさい。ちょっと待っていてください」


重ね重ね謝り、頭を下げてから病室を出た。

それからナースステーションまで急いで歩き、タイミングよくいてくれた古河さんを呼ぶ。


「古河さん!古河さん!あの、おしぼり…おしぼりもらえますか?」


唐突な話に古河さんは眉根を寄せて首を傾げた。


「何に必要なの?」

「長田さんの時、古河さん持っていたんですよね?温かいおしぼり。あれ、使いたいんです。不安そうにしている患者さんに」


途切れ途切れの言葉にも古河さんは理解を示してくれた。

すぐに私に背を向けると、作りたての温かいおしぼりを持って来てくれた。


「冷めないうちにね」


古河さんのアドバイスにしっかりと頷き、少し熱めのおしぼりを持って蒲田さんのところへ。


「失礼します。蒲田さん。あのっ。これ。どうぞ」
 

慌しくも、蒲田さんの目の前におしぼりを差し出す。

すると、反射的に受け取ってくれた。


「わっ。あちちっ。熱い!あ、でも……これ。目に当ててもいいかな?」

「どうぞどうぞ」


2度頷いて見せると、蒲田さんはおしぼりを目に当て、長く息を吐き出した。


「あぁ…気持ちいいなー…」

「それは何よりです」 


古河さんの専門的な知識に感謝しながら、手の震えの止まった蒲田さんの様子を見守る。

まもなく、戸澤先生と日沖さんが入って来た。


「失礼します」


物音と声に気付いた蒲田さんは目からおしぼりを外した。


「体調はいかがですか?」


戸澤先生の声に蒲田さんは一瞬私の方を見て、表情を和らげ言った。


「今は気分がいいですよ」

「ほぉ。さすが蒲田さん。皆さん、この検査の前は緊張されるのですが、気分がいいとは。恐れ入りました。ですが、念のため。検査前に聞いておきたいこと、不安なことはありますか?」  


戸澤先生の言葉に蒲田さんはフッと小さく笑った。


「緊張、していましたよ。ずっとね。すごく不安で、看護師さんにも何度も検査したくないと訴え、今の今まで検査を断ろうと思っていたくらいに」


蒲田さんの言葉に戸澤先生は背後にいる担当看護師である日沖さんに目を配った。

厳しくも冷ややかな視線に日沖さんは気づいたのか、どうだか。

目を伏せた。


「でも」  


蒲田さんの声に戸澤先生は視線を戻した。


「彼女が温かいおしぼりを持って来てくれたんです。手にした時はとても熱かったんですけど、おかげで手の震えは止まった。そしてこんな時なのに居酒屋を思い出したんです」


軽く微笑んだ蒲田さんは手にしているおしぼりを見ながら話しを続けた。


「仕事で疲れて、居酒屋で一杯やる時、おしぼりを目に当てたこと、先生はないですか?あれ、気持ちいいんですよ。疲れや不安なんて一瞬で吹っ飛ぶ。また明日頑張ろうって思うんです。そんな日を、思い出しました」


そこまで言うと蒲田さんは私を見上げた。


「ありがとう。あなたのおかげで決心がつきました。わたしはまだ死ねない。頑張りますよ」


親指をグッと立てて見せてくれた蒲田さんに、私も親指を立てて応える。

少しでも力になれて、長田さんの一件が他の患者さんの役に立てられて、嬉しかった。

それでもうつ伏せになり、局所麻酔を始めた時の蒲田さんは不安から手を強く握り締めていた。

不安に打ち勝とうとする蒲田さんの頑張りを目にして、採取された骨髄液をしっかりと受け取り、背後で検査後の処置が行われているのを感じながら、丁寧に、かつ素早く検体を処理していく。


「検査結果が出たら直接僕のところに持って来て」


『直接』の部分を強調されたことが気になったけど、検査室に戻り、香山さん、関谷さん、私の3人で骨髄中の細胞の形や芽球がどのくらいあるかを迅速かつ丁寧に調べていく。

さらに骨髄穿刺により得られた骨髄液を利用して、染色体検査、遺伝子検査を行うのだけど、これは検査センターに発注するので結果はすぐには出ない。

戸澤先生の元には検査室で出たものだけをとりあえず持って行くことにした。


「失礼します」


外来の診察室にいた戸澤先生の元に報告書を手渡した。


「やはり、そうか」


戸澤先生は病名をある程度予測していたようだ。


「染色体の結果待ちだが、血液内科に転院させるのに紹介状に書く結果が必要だったんだ。だが、検査を拒否している、と看護師から聞かされて、説得からしなきゃいかんのか、と頭を悩ましてたんだ。だから本当に諸々助かったよ」

「そうだったんですね」
 

状況も原因もはっきりした。

でも蒲田さんのこれからを考えると戸澤先生のようにすっきりとした顔は出来ない。


「そんな悲しそうな顔するな」


優しい声色に顔を上げると、戸澤先生は私の頭に手を乗せた。


「きみのおかげで蒲田さんは検査を受けてくれて、病名が確定したんだ。これから適切な治療を受ければ、今より悪くなることはないよ。現に蒲田さんはきみに感謝していたし、きみも良い勉強になっただろ」


戸澤先生の言葉に、ハッとした。

骨髄穿刺は蒲田さんにとっては辛い検査と結果になってしまったけど、検査をする側としてはとても貴重な経験だったのだ。

蒲田さんの頑張りを無駄にはしない。

沈んでいた気持ちが少しだけ浮上した。


「ありがとうございました」


戸澤先生に一礼し、検査室に戻り、仕事を終えてから蒲田さんの貴重な骨髄像を顕微鏡で見直すことにした。


「勉強熱心もいいけど、程々にね」


関谷さんは帰り際、そう言っていたけど、結局私は就業後2時間。

顕微鏡の前から動かなかった。


「こんな遅くまで残っていたのかい?」


帰ろうとした時、ちょうど戸澤先生に出くわした。


「骨髄像を見られる機会はあまりないので」


それだけ言えば、蒲田さんのことを言っていると主治医なら分かる。


「勉強熱心もいいが、程々にな」


戸澤先生は関谷さんと同じ言葉を口にした。

それでも、気に掛けていてくれたのだろう。

戸澤先生は、蒲田さんが転院のため退院する日を教えてくれて、見送る際、同席するよう連絡をくれた。


「気にしていると思ってね」


本来なら検査技師は見送りに出るようなことはしない。

戸澤先生の気遣いに少しだけ戸惑いつつも、車椅子から私を見上げている蒲田さんの目線に合わせてしゃがんだ。

でも、いざ蒲田さんを目の前にすると言葉が出て来ない。

見兼ねた蒲田さんが私に微笑んで言った。


「元気になったら、きみを食事に誘ってもいいかな?居酒屋だけど」


蒲田さんの言葉を受けて戸澤先生を見上げると、先生が微笑んで頷いたので、私も笑顔で蒲田さんに答える。


「居酒屋は好きです」

「そうか。それは良かった。楽しみがないと辛い治療に耐えられそうにないからな」


蒲田さんはそれから私の名札を見て、私の苗字を呼んだ。


「松島さん。ありがとう。頑張ってくるよ」


蒲田さんは爽やかな笑顔を見せてくれた。

だから私も精一杯の笑顔を向けると、車椅子に手をかけていた若い男性が一礼し、そのまま転院先へと向かって行った。


「あの方は息子さんですか?」


背中を見送りながら戸澤先生に訊ねると、秘書の方だと教えてくれた。


「蒲田さんは社長か何かなんですか?」


何気なく聞くも、答えが返ってこないので戸澤先生を見上げると、驚いているのか、目を見開き、私を凝視していた。


「え?私、変なこと聞きましたか?」

「いや、だが、知らなかったのか?」

「え?有名な方なんですか?」


質問に質問で返したのが可笑しかったのか、戸澤先生はフッと鼻で笑っただけで答えはくれなかった。

さすがに笑われたとなると、気にならないわけがない。

でも、わざわざ調べることでもないと通常業務に戻り仕事を終えた。 


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