結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです


「今日も残って勉強するの?」


関谷さんに聞かれて首を横に振る。


「ひとりで勉強するには限界があるので、今度、勉強会に行って来ようかと思います」

「そうね。私も教えられるほど詳しくないし。私も勉強会参加しようかな」


関谷さんも一緒に行ってくれるなら、とその場で技師会のホームページを開き、勉強会の日程を検索。

ちょうどいいタイミングで開催される日があったので、ふたり分予約し、更衣室へと向かった。


「お疲れ様です」


先に着替えているスタッフに声を掛けた。


「お疲れー」


返してくれた声に小さく頭を下げながら、自分のロッカーを開ける。

でも、着替えを始める前に声を掛けられた。 


「ちょっといい?」


誰かと思えば日沖さんだ。

日沖さんとは仕事上でしか関わりがないから、呼び止められる理由が思い当たらない。

隣のロッカーを使っている関谷さんでさえ、不思議そうに私と日沖さんを交互に見ている。

それでも、日沖さんは人気のあるところで話すつもりはないらしく、更衣室を先に出て行ってしまった。

慌てて追いかけると、日沖さんは誰もいない看護師の当直室に入って行った。


「あの」


閉じられそうになる扉へ、滑り込むようにして入り、声を掛けた。


「どのようなご用件でしょうか」


聞くと、仮眠用のベッドに座ってから腕を組んだ日沖さんは、睨むようにこちらを見て口を開いた。
 

「松島さんってさ、看護師なの?」

「臨床検査技師ですけど」


当たり前のことを聞かれて、当たり前に答えてしまった。

それが余計に日沖さんの機嫌を損ねたようで、「分かってんだよ」と静かな怒りを含んだ声が室内に響いた。

怒られるようなことをした覚えはないのに、いったい、何なのだろう。

不安で体が縮こまり、視線を下げる。

すると、そこを指摘された。


「ねぇ。それ。そのビクついた感じ。やめてくれない?虐めてるみたいに思えるから。それとも、そう思わすように演技でもしてんの?」

「演技なんか」


出来るわけない、と言おうとしたのに、言葉をかぶせられてしまった。


「どっちでもいいわよ。ただ、松島さんに言いたいのは、したたかなの、やめてってこと。看護師差し置いて患者に温熱療法するとか、説得するとか、あり得ないから」


温熱療法と聞いて、蒲田さんのことだとハッとした。


「あれは古河さんを参考にして」


言ってから名前を出してしまったことを後悔した。

どんな話しであれ、必要でない以上、他者の名前を出して巻き込むべきではなかった。  


「古河さんに指導されたの?古河さんがやっていいって言ったの?」


矛先が古河さんに向いてしまった。


「いえ。違います。私が必要と考え、私が勝手にやりました」


訂正すると、日沖さんはハッと短く息を吐き出した。  

「そうよね。古河さんは看護師だもの。看護業務を技師に指導なんてしないわよね」

「すみません」


実際は、古河さんに許可を得たような形だけど、ここは素直に謝った方がいいと判断し、謝罪した。

それなのに、日沖さんの怒りは収まらない。


「謝って欲しいんじゃないのっ。あなたのせいでね、私、戸澤先生に怒られたのよ?『患者の説得くらい出来なくてどうなってんだ』『技師に出来てなんで担当看護師が出来ないんだ』『医師に手間かけるな』って!」

「私のせいですか?」


ぽろっと本音が口から出てしまった。

慌てて口を噤むも、日沖さんにはちゃんと聞こえていたようで、眉間に濃い縦皺が寄り、怒涛の反論が返ってきた。


「あのね。私たちだってちゃんと患者のこと、考えて、考えた上で「検査を受けたくない」って言っている患者さんを励ますことも、突き放すこともしなかったの。様子見て、これはドクターから説明してもらった方がいいって判断したから戸澤先生に任せた。それなのに、その時だけ関わったあなたが蒲田さんに気に入られ、戸澤先生にも評価されたなんて。ましてや、古河さんのやり方を参考にしたとか、責任転嫁までして」


キッとこちらを睨んだ日沖さんは立ち上がり、私の目の前に来て続けた。


「看護師じゃないんだから、余計なことしないで。看護師にだって、医師にだってそれぞれのやり方。プライドがあるのよ」

「医師?」


今は看護師の話をしているのではないのか。

違和感ある単語を復唱すると、あからさまに怪訝な顔をされた。


「もしかして知らないの?蒲田さんのこと」

「はい」


頷き、答えると、日沖さんは呆れたと言わんばかりに天井を見上げ、それから蒲田さんが政界と繋がりのある人なのだということを教えてくれた。


「そんなに偉い方だったんですか?」

「そうよ。戸澤先生にとって特別の患者。ほら、戸澤先生は医師会の会長を経て、政界へと登っていきたいから。蒲田さんに少しでも恩を売りたくて、病名を明らかにするのに必死だったのよ。色んな検査を受けさせて、でも分からなくて、蒲田さんは戸澤先生にも病院にも不信感を抱いていたの」


そんな中、私が携わった骨髄検査で病名が確定。


「見送りだって蒲田さんがどうしても会いたいって言ったから呼んだのよ。そしたらどう?食事に誘われ、お礼を言われたのはあなただけ。先生も担当看護師も、プライドズタズタよ」


全然、知らなかった。

ただ、事情を知らされれば知らされるほど、私のしたことは怒られることでも、越権行為だとも思わない。


「いったい、日沖さんは私のなにに怒っているのですか?」

「は?」


日沖さんの顔が明らかに歪んだけど、黙ってはいられない。


「私は越権行為をしたわけではありません。それに、患者は病院に具合が悪い原因を突き止めて欲しくて、さらには病気を治してほしくて来ているんです。誰かの思惑のために来ているのではないし、誰かの点数稼ぎのために良い顔するわけでもないと思います」


戸澤先生の都合や、戸澤先生の本音は分からない。

ただ、不安を和らげ、重い病名をも受け入れ、治療に前向きにしたひとが看護師だろうが、医師だろうが、技師だろうが、そんなの関係ないと思う。


「病名がはっきりして、治療方針が決まって、患者のQOLが上がる。自分たちの利益よりもそこが大事なんじゃないんですか?今回はそれが少なくとも出来た。なぜ、私が怒られなければならないのでしょうか」


自分が思う正論と疑問をぶつけた。

経験のないことだから、体が興奮と緊張で、小刻みに震えている。

日沖さんの無言とこめかみの青筋も怖い。

それでも、蒲田さんの不安に慄く様子と、病態を顕微鏡を通して見続けた私は、人間関係にトラブルが起きることを予期していても、言わずにいられなかった。


「ただ、事情も知らず、出過ぎた真似をしてしまったことは日沖さんのご指摘通りです」


日沖さんは看護師としての立場と経験を踏まえて蒲田さんに接していた。

そこを気に留めなかったのは私が悪い。


「謝ります。すみませんでした」


きちんと誠意が伝わるように、頭を下げた。

それなのに……


「偉そうに」

「え?」


日沖さんの呟きに頭を上げた時、日沖さんの手が私の胸元に伸びてきた。


「ムカつくのよっ!」


首元の白衣を掴まれて、グイッと引っ張られた。

殴られる。

そう思って目を閉じた次の瞬間、当直室の扉がバーンと開いた。

反射的に目を開け、扉の方を見ると、そこには日沖さん以上に怖い顔をした古河さんがいた。


「日沖さん。なにしてんの?」

「別に」


私を掴んでいた手を乱暴に離した日沖さんは、そのままそっぽ向き、ベッドに腰掛けた。

対する古河さんは私の両腕に触れて怪我を心配してくれる。


「大丈夫?なにもされてない?痛いところ、ない?」

「は、はい。大丈夫です」


動揺を悟られまいと気丈に振る舞うも、声が震えてしまった。

これだから演技と言われてしまうのだろう。


「大丈夫です」


もう一度しっかりと言い直した。


「それならいいけど」


古河さんは私から視線を日沖さんに向けた。


「日沖さん。あなたいったい、なにがしたいの?松島さんを責めて、返り血浴びて、しまいには暴力とか、あり得ないのはあなたの方よ?」

「はじめから聞いてたのね?」


日沖さんが古河さんを睨み上げた。


「悪趣味」

「そうね。ごめんなさい。でも元はといえば、当直室を当直看護師が使うの分かっててこの場所を選んだのが悪いわね」


あっけらかんと言う古河さんに、日沖さんはこれ以上言うことがなくなってしまったのか、無言で首を横に振り、立ち上がった。

でも、ここまで声を荒げていたのだ。

ただ帰ったりしない。


「覚えておきなさいよ」


日沖さんは扉口で振り返り、私に言った。


「バカにして敵に回したこと。後悔させてあげるわ。嶋津先生の前で恥をかけばいい」


去り際、笑った日沖さんの顔が純粋に怖くて、体が身震いした。

それは私の肩に手を置いていた古河さんも気付くほどで。


「大丈夫?」


先程聞かれた時の声よりもはるかに優しい声につい不安を口にしてしまう。


「大丈夫…じゃなさそうです」


それを受けて、古河さんはベッドに座るよう促してくれた。

とてもじゃないけど、ひとりで出ていける心境になかったから、ありがたく座らせてもらう。

にも関わらず、古河さんは出て行ってしまった。


「ちょっと待っててね」


戻っては来てくれるようだけど、ひとりになると急に心細くて、怖くて、正論を吐いたことをすでに後悔していた。


「お待たせ…って、本当に大丈夫?!」


戻ってきた古河さんは、両手を顔に当て、俯いている私を心配してくれた。


「ねぇ、これ。手より効くから」


言われて手を退かすと、湯気の出るほど温かいおしぼりが差し出された。

話題となったおしぼりだけに、抵抗がある。

それでも温かいおしぼりを手にして、ゆっくりと目元に持っていくと、ほっとして肩の力が抜け、気持ちが幾ばくか落ち着いてきた。


「温熱療法」


古河さんが優しく背中をさすりながら口にした。


「大丈夫。松島さんの考えは間違ってないわよ」


答えに困り、黙っていると、古河さんはさらに続けた。


「間違ってないけど、間違ってない分、正論ぶちかまされるとイラッときちゃうのよ。まして大好きな戸澤先生から怒られたものだから」


そうだったのか、と頭の中で声にする。


「でもね。これからどうしようか」


どうしたらいいのだろう。

日沖さんが今後、なにをしてくるのか皆目検討付かないけど、ただで済むとは思えない。

尚さんのことまで口にしていた。


「迷惑掛かったらどうしよう」


不安を吐露すると、古河さんが答えてくれた。


「大丈夫よ。嶋津先生は近いうちに辞めるし、そもそも松島さんなら大丈夫」

「え?」


今、なんて言ったのだろう。

目からおしぼりを外し、古河さんの方を見ると、大きくひとつ頷かれた。


「偶然、話を聞いちゃったわけだけど、松島さんが日沖さんに言い返したのを聞いて、私は感心したよ。ちゃんと信念持って仕事してるんだな、って。今までどうして嶋津先生は松島さんを選んだんだろう、って不思議だったんだけど、よく分かった。松島さんは見た目だけじゃない、見た目だけでは判断できない強さを持ってる」

「でも、告白するのはやめてくれないんですよね?」


この疑問に古河さんは肩を竦めるだけで答えてはくれなかった。

その代わりに、古河さんは自分のことを話してくれた。

訪問看護中の失敗談や医師看護師間での意見の違いで言い合ったこと、正義感が強くて孤立してしまうことなど。

私の不安が少しでも軽くなるようにと、師長から呼び出されるまでずっと背中をさするのを止めずに、話し続けてくれた。


「ごめん!当直だったんだ。しかも師長と。怒られるー」


だなんて。

古河さんは嘘をつけない人だ。

棒読みの台詞を聞く限り、先程おしぼりを取りに行った時、きちんと師長には席を外すことを伝え、人手が必要になったら連絡をもらう手筈にしていたに違いない。

その上で、私に気遣わせないように、戯けて自分を下げて見せるのだから敵わない。

尚さんも古河さんを評価していたし、心だって許しているのだろう。


『嶋津先生は近いうちに辞める』


私が知らないことを古河さんは知っていた。

事実かどうか、定かではないけど、不確定なことを古河さんが口にするとは思えない。

職場とプライベート。

どちらも私の居場所がなくなっていく。

そんな気がして、心の中が、冷え切ったおしぼりのように冷たくなっていくのを感じていた。





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