結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです


「関谷さん」


プリントしたものを顕微鏡を覗いている関谷さんの元に持っていく。


「この方のデータ。一緒に見てもらえませんか?気になることがあって」

「誰のデータ?」


関谷さんは顕微鏡から目を離し、パソコンで患者名を検索した。


「小野寺晴子さん。78歳。前回値は……」  


検査歴画面を開いた関谷さんは、私と同じ検査項目に注目した。


「血小板値が低いわね。肝機能の結果が出るまでの間に、急いで血液を染めてくれる?」

「もう染めてます」


と答えるのと、染色を終えたタイマーが鳴るのがほぼ同時だった。


「分かってるじゃない」


関谷さんに肘で小突かれたけど、血小板値が明らかに前回よりも低い場合、血液を特殊な染色液で染めるのは基礎中の基礎だ。

急いで染色液を落とし、ドライヤーで乾かして、ふたり同時に見ることが出来る顕微鏡で関谷さんと一緒に確認する。


「うーん。血小板、固まってないわね」


血小板数が低くカウントされる原因は主にふたつ。

採血上の不手際、もしくは採血が難しく、時間がかかってしまい、血小板が採血管の中で固まってしまったか、本当に血小板の数値が低いか。

顕微鏡で実際に血小板を見ればどちらかなのかは一目瞭然で、小野寺さんの場合は後者に当たる。


「何の患者なのかしら」


関谷さんはそう言いながら、すぐに外来に電話をかけた。


「『昨日から倦怠感と発熱で当院を受診。食事も水分も取れない状態で、外来で点滴中』だって。早めにデータ持って行った方がいいわね」


関谷さんの情報を聞き、ちょうど出揃った血液検査の全データを印刷して外来へと走った。

その時はスタッフの目がどうとか、尚さんが、とか、そんなこと全く気になっていなかった。

なのに、外来にいないはずの日沖さんがいて、足が止まってしまった。

そんな私に日沖さんは気付き、こちらに視線を寄越した。

冷たく鋭い視線を向けられて、思わず視線が下がる。

でも、落とした視線の先に小野寺さんの血液データがあり、プライベートなことは患者さんには関係ないと、気を強く持ち、顔を上げ、足を踏み出した。


「すみません。外来の看護師さんは今、どちらにいらっしゃいますか?」


見える範囲に誰もいないので日沖さんに聞くと、案外普通に教えてくれた。


「急患対応中と、採血と、点滴。あとは診察室に入ってるわ」

「では戸澤先生は今、どちらにいらっしゃいますか?」


「戸澤先生」と聞いて日沖さんの眉が片方上がったけど、日沖さんの前に並ぶ診察室のうちのひとつを見て答えてくれた。


「これから入院する患者に諸々説明中。私はその患者を迎えに来ているわけだけど、あなたはなにか用なの?」


冷たい目で見られるとやはり気持ちが萎縮してしまう。

いちいち奮い立たせないといけないことに不甲斐なさを感じながらも、日沖さんを見る。


「この方の血液データを見てもらいたいんです」

「急ぎなの?」


コクっと頷くと、日沖さんは私の手元に視線を下げ、報告書を取り上げた。


「なるほど。炎症反応が高いのね」

「はい。あと、血小板の数値が低いんです。それを見てほしくて」


指差して伝えると、日沖さんはふーん、と言った。

間延びした返事が気になり、日沖さんを見ると、今度は日沖さんがデータを指差した。


「この患者、肝臓が悪いじゃない。ほら。ここ。肝機能が悪ければ血小板の値って下がるわよね?あれ?もしかして、検査技師なのに、そんなことも分からないの?」

「もちろん分かっています。分かっていて言っているんです」 


日沖さんのバカにした言い方が癇に障り、少し感情的になってしまった。

それが日沖さんの怒りに火をつけることは前回学んだはずなのに。


「すみません」


顔を歪めた日沖さんに先に謝るも、時すでに遅し。


「またあなたは私をバカにするのね」


低い声でそう言うと、血液検査の報告書をクシャッと握り潰した。


「あ!ちょっと、なにするんですかっ」


取り返すために手を伸ばす。

でも、簡単に避けられてしまった。


「返してください!小野寺さんのために、急ぎで見てもらいたいんですから」

「小野寺?」


名前に反応した日沖さんは、クシャクシャになった報告書を開き、名前の欄を確認し、「ああ」と大袈裟な声を上げた。


「これ、小野寺さんの結果だったのね。てことは、戸澤先生のご機嫌取り?わざわざコメントまで書いて。VIPの患者様にご丁寧だこと」

「VIP?そんなこと知らなかったですし、知ってても差別して検査なんてしません」


あまりに横暴な言い方に黙っていられなかった。

でも、再三の物言いに、ついに日沖さんはキレた。


「そんなこと言われなくても分かってるのよ!なんでもかんでもバカ正直に言い返してきて。すっごく不愉快だわっ!」


日沖さんの怒声が外来に響いた。


「何事だ?」


騒ぎを聞きつけて診察室から顔を出したのは尚さんだった。

いちばん見られたくなかった人に見られて、思考も口も体も固まる。


「すみませーん。なんでもありません」


日沖さんはワントーン明るい声で尚さんに答えたけど、私に同じような対応が出来るはずもなく。

固まったままの私の腕を日沖さんが掴んだ。


「ちょっとこっちに来なさい」


日沖さんに連れられるがまま外来から少し離れた廊下に出ると、乱暴に腕が離された。


「まったく、どんくさいわね。婚約者の前で恥を晒したくらいで固まらないでよ」

「すみません」


思考が停止したままだったので、謝ることしか言葉に出来なかった。

それを受けて、日沖さんは鼻で笑った。


「さすがの松島さんも嶋津先生が絡むと大人しくなっちゃうのね。この前のことは私も言い過ぎたところがあったからなにもせずにおこうと思っていたけど、ふふ。ちょっとスッキリしたわ」


良いんだか、悪いんだか、その判断も付かない。

黙っていると、日沖さんは勝手に話を進めていく。


「精神的に落ちてる状態じゃ、戸澤先生とろくに話も出来ないわよね。これは私が渡しておくから。松島さんはさっさと検査室に戻った方がいいんじゃない?」


そうかもしれない。


「分かりました」


小声でそう言うと、日沖さんは満足そうに微笑んだ。


「でも、急ぎで。必ずコメント付けて見せてください」


強調して言ったことが良かったのか、悪かったのか。

日沖さんの引きつった口元が後者を表しているのだとしても、プライドを持って働いていると発言した日沖さんが報告書を手渡さないはずはなく、そこは安心して任せられた。

ただ、よりによって尚さんと会う日に限って、怒鳴られたところを見られてしまったなんて。

やりきれない。




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