結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
「心ここにあらずだな」
食後のお茶をソファーで並んで飲みながら、テレビを見ている時に尚さんが言った。
「今日の杏はほとんど話しもしないし、話しかけても空返事。どうかしたか?」
理由のひとつは思い当たっているはずなのに、尚さんからは聞いてこない。
私が話さないからだろうか。
話したところで弁明しているようで、余計に情けなくなりそうで、言えないのに。
「ごめんなさい」
謝ることしか出来ない私は膝を抱え、身を小さくして顔を隠した。
すると、尚さんの手が頭に乗り、優しく撫でてくれた。
なにも言わずにゆっくりと。
なにか言葉を掛けて欲しい訳じゃなかったから、それで十分。
ただ、色々なことがあった分、感情がおかしくなり、涙が溢れてきた。
声を殺し、嗚咽を抑えるも、小刻みに震える体は抑えきれない。
気付いた尚さんがふわっと体を抱きしめてくれた。
「ひとりで抱え込むな。吐き出したかったら吐き出せ」
そう言われても、変なプライドが邪魔して、日沖さんとの一件は話せない。
代わりに、というには語弊があるけど、尚さんに会ったら聞かなければならないと思っていたことを思い出し、吐き出すことにした。
「尚さん」
「なんだ?」
「病院、辞めるんですか?」
言った途端、尚さんの私を抱き締める腕の力が弱まり、体が離れた。
「誰から聞いた?古河さんか?」
尚さんの驚いた表情と言葉が答えだった。
「本当なんですね」
古河さんの名前を出した尚さんに対して、胸がモヤッとした。
でも、それに気付かれたくなくて、尚さんから視線を外し、2人分のマグカップを手に取ってソファーから降りて、続ける。
「辞めてどうするんですか?大学病院に戻るんですか?」
キッチンへと進み、スポンジに洗剤を付けながら、なるべく明るい声で聞いた。
でも尚さんの表情は険しく、口も重い。
「いや、戻らない」
「ではどこに?」
追求して欲しくないのは尚さんの態度から明らかなのに、精神的におかしくなっている上、古河さんの名前に敏感に反応し、胸にモヤモヤしたものを抱えた今日の私の口は止まらない。
「いつ辞めるんですか?」
「それは……」
尚さんは案の定、黙ってしまった。
分かっていても、それが無性に気持ちを逆撫でる。
「なんで?」
「え?」
「なんでなんですかね?」
ダメだ。
もう抑えきれない。
水を止め、静かになった空間の中で、気持ちを吐露していく。
「いつ、どこに行くのか、なんで教えてくれないんですかね?古河さんは知っているのに、なんで私には話してくれないんですか?」
「悪い。杏は」
「また「関係ないから」ですか?」
尚さんに言われるのが嫌で、言葉を遮った。
その上で尚さんがなにか言おうと立ち上がり、口を開いたので、急いで言葉を声にする。
「ご両親のこともそう。家のことも、古河さんのことも、辞めることも。私は何ひとつ知らない。今だに知らされてもいない。それなのに、古河さんや伊東先生は知っているって、どうしてなんですか?どうして私にはなにも話してくれないんですか?私は尚さんの何なんですか?」
堰を切ったように溢れてくる言葉に、感情も溢れ、涙がこぼれ落ちる。
気付いた尚さんがこちらに来ようとしたので、後退することで拒絶を示した。
「どうした?杏らしくないぞ」
分かっている。
でも、私らしいってなに?
「私は言いたいことを我慢しがちなのに、必要ない時に感情的になって、余計なこと言って、スタッフと喧嘩するようなバカな女ですよ?」
「だからなんだ?」
尚さんの低い声が感情を弱め、気持ちも縮こまる。
でも、バカな私はこのまま引くことが出来ない。
「大人しく黙って、従順でいるのが私だと思っているのなら、そういう人を結婚相手として望むのなら、私ではダメです。もっとも、尚さんは私と結婚する気、もうないでしょうけど。婚姻届だって、あれ以来出てこないもの」
感情がぐちゃぐちゃだ。
そもそも別れたいわけでもないから、最後の方は声が震えてしまった。
見兼ねて尚さんが私に歩み寄ろうと足を踏み出した。
でも、スマートフォンの音が室内に響き、私と尚さんの間の距離は縮まらない。
「鳴ってます。出てください」
「今はいい」
尚さんはそう言いながら私の方へ近づいて来ようとした。
でも、着信を知らせているスマートフォンが気になり、失礼かと思いながらも私が手に取り、画面を見て、手渡した。
「病院からです」
そう言うと、しぶしぶ尚さんはスマートフォンを手に取った。
「はい…って、なんだよ、伊東か。こんな時間になんだ」
明らかに不機嫌な声。
「あ?あぁ。うん…え?それで?」
尚さんの声が段々と深刻な声色に変わっていく。
状況が状況なだけに何があったのかと聞きにくいのだけれど、尚さんの声の感じはただ事ではない印象を受けた。
現に通話を終えるなり、尚さんはコートを手に取り、出掛ける支度をし始めたのだ。
「悪い、杏。急患がこれから救急車で運ばれて来るんだ。担当医は戸澤先生なんだが、繋がらないらしい」
「伊東先生が当直なんですよね?」
どうして尚さんが向かう必要があるのか。
そこを聞くと、伊東先生は手一杯で断ろうとしたのだけれど、急患は午前中に外来に来た患者らしく、家族がどうしてもと言っている、教えてくれた。
「ごめんな」
尚さんは玄関先で私の顔を見ずに謝った。
それが余計に胸に刺さり、涙が溢れる。
「終わったらすぐに戻って来る。そしたら全て話すから。待っていてくれ」
「はい」
と答えたのはいいけど、気持ちは重い。
全てを聞けることが嬉しいはずだし、望んだことなのに、ちっとも嬉しくないのは無理矢理聞き出すようなことになってしまったからなのだろう。
これは本気で結婚自体が怪しくなってきた。
自分で撒いた種とはいえ、日沖さんの一件を引きずり、感情的に事を荒げたことが、気持ちを沈める。
本当に私はバカだ。
いったい、どんな顔して待っていたらいいのだろう。
落ち着かなくて、見慣れた室内を所在なく見回す。
そんな時、ワークデスクの上に積まれた学会の資料や医学雑誌が目に入った。
今にも落ちてきそうな書類。
手に取ると案の定、バサバサッと落ちてしまった。
一冊取るはずが、絶妙なバランスで積まれていた本のバランスが崩れてしまったのだ。
尚さんが帰って来るまでに片付けないと、と思い腰を上げ、腕捲りして取り掛かる。
どれも難しい本ばかりだ。
全編英語で書かれたものの中には尚さんの名前が記されたものもあった。
ただでさえ医師は勤務状況も厳しいのに、臨床の合間にレポートや研究もしていたなんて。
その上、家族のこと、転職のこと、プライベートと重なったら、体はひとつじゃ足りないくらいだろう。
わがまま言ったりしない、聞き分けの良い彼女がちょうど良かったに違いない。
それなのに私は、尚さんのことをなにも知らずに、自分のことばかり考えてしまった。
私に意思はなくても、結婚は白紙に戻した方がいいのかもしれない。
「尚さんも同じように思っているのかも」
そう思ったのは、明らかに異質な存在を放つA4判の封筒が目に入ったからだ。
表面には法律事務所の名前。
弁護を必要とする事象が起きている可能性もあるけど、今後、私との関係で弁護が必要になるために事前に用意している可能性も考えられる。
「自業自得かな」
呟くと同時にスマートフォンが鳴った。
画面を見ると着信は尚さんからだった。
「はい」
「今、少しいいか?」
電話先の尚さんの声が硬い。
先程のことが響いているのかも、と思ったけど、病院にいる尚さんが公私混同するとは思えない。
「はい」
と答えると、小野寺という名前の患者に記憶はあるか、と聞かれた。
「小野寺さん。小野寺晴子さんですよね?血小板の数値が低かった方」
「そうだ。覚えていたなら話は早い。午前中の検査値の血小板数。あれは」
「間違いないです」
尚さんの言葉を遮り、伝える。
「固まっていないことは顕微鏡で確認済みです。緊急性があったので、コメントを添えて、印刷して持って行きました。でも、なぜですか?なんで今頃、って、もしかして急患って」
「そうだ」
今度は尚さんが言葉を遮り、続けた。
「今、検査値を確認したんだが、午前中に来院された時に、すでにDICを起こしていた可能性が高い。にも関わらず帰宅し、急変。現在の状況はかなり危険だ」
DICとは本来出血箇所のみで生じるべき血液凝固反応が、全身の血管内で無秩序に起こる疾患。
早期診断と早期治療が求められる重篤な状態で、治療が遅れれば死に至ることも少なくない。
血小板の数値が明らかに低く、検査室としてもその可能性を疑ったからこそ、至急報告したのだけど、帰宅していただなんて。
「結果は戸澤先生に渡したんだよな?」
「日沖さんに渡しました」
まさか渡してくれていなかったのだろうか。
そんなことない、と思いながらも他人に任せてしまったことを急に不安に思い始めた。
「日沖さん?」
尚さんに聞かれて、黙っていると、ちょっと待ってろ、と言われた。
電話の背後から聞こえる声からは、どうやら日沖さんが当直で来ていないか、聞いているようだ。
それともうひとつ。
「いったい、どうなってるんだ!」
「医療ミスじゃないのかっ!」
電話越しに聞こえる怒声は内容からしておそらくご家族のものだろう。
ただ事じゃない、と視線を彷徨わせた時、目に入ったのは法律事務所の名前だった。
訴訟、の二文字が脳裏をよぎる。
日沖さんによれば、小野寺さんは地位のある方のようだった。
「私もこれからそちらへ向かいます」
事情をはっきりさせないといけないし、DICを起こしているなら、緊急の検査や輸血も必要になってくるかもしれない。
当番ではないけど、私が行けば当番の技師長が呼ばれることがないだけだ。
でも、すでに技師長は呼ばれており、私が行く必要はなく、尚さんも手が離せないのか早々に通話は切られてしまった。