結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです

結局、尚さんは2時間経っても帰って来なかった。

仕方なく終電で実家に帰宅。

浅い眠りと覚醒を繰り返し、ぼんやりする頭で出社すると、技師長に会議室へ行くよう言われた。

用件に見当がついていたから心の準備は出来ている。

小野寺さんの検査結果を念のため、再度印刷したものを手に会議室へと向かった。


「検査データは日沖さんが戸澤先生に渡したんだね?」


会議室の扉は少しだけ空いており、中から事務長の声が聞こえた。

会話の様子から日沖さんもいることが伺え、質問に答える日沖さんの声が聞こえた。


「渡しました。当たり前じゃないですか。ていうか、そんなことのために私、呼び出されているんですか?」


事務長は痩せ気味でいつもおどおどしているから、スタッフは強気に出る人が多い。

日沖さんもその例に漏れないようだ。


「意味のない質問なら時間のある午後とかにしてくださいよ。看護師の朝は事務長と違って忙しいんです。だから戻ってもいいですか?」


日沖さんは不機嫌さを隠すことなく、年増の事務長相手にはっきり言った。


「いや、ちょっと待って。たしかに忙しい時間に悪いんだけどさ、状況を記憶がある時に確認しておかなきゃいけないんだよ。松島さんにも聞くけど…って、遅いな、松島さん」


事務長が私の名前を出したので、タイミングよく室内に足を踏み入れる。

中には事務長、日沖さんの他に伊東先生と戸澤先生がいた。


「失礼します。遅くなってすみません」

「あぁ、ちょうど良かった松島さん」


事務長は私の顔を見て、日沖さんを見て、唐突に双方に質問をしてきた。


「ねぇ、ふたりは喧嘩してるの?」

「は?」


日沖さんが露骨に顔を歪めた。

対して事務長は落ち着きなくうろたえる。

でも、聞きたいことはストレートに聞いてくるのが事務長だ。


「ふたりが昨日、外来で言い争ってるのを見ていた人がいてね。『松島さんが持っていた検査結果を日沖さんがクシャクシャにした。だから結果自体、戸澤先生の手に渡っていないんじゃないか』って。心配して報告してくれたんだよ。それって本当かい?」


本当もなにも。

誰か見ていた人がいたなんて、気付かなかったにしても、その人もただ見ていないで声を掛けてくれたら良かったのに。


「悪趣味が外来にもいるのね」


日沖さんはため息混じりにそう呟き、事務長の方を向いた。


「松島さんとはたしかに色々ありますけど、仕事は仕事。患者さんに迷惑掛かるようなことはしません。きちんと結果は戸澤先生に渡しましたよ。ですよね?戸澤先生」


日沖さんに話を振られた戸澤先生。

でも曖昧に首を傾げた。


「どうだったかな?」

「戸澤先生?!」


日沖さんの表情が険しい。

見る限り、戸澤先生がとぼけているように見えるけど、その実はどうなのだろう。


「私の責任にするおつもりですか?」


日沖さんの訴えに場が緊迫する。

結局のところ、朝一から呼び出されているのは、遺族に状況説明するための確認の他に、責任の所在を明らかにするためだからだ。


「戸澤先生?」


事務長がたまりかねて戸澤先生を呼ぶと、先生は首を左右に細かく振った。


「日沖さんの責任になんてしないさ。渡した、渡してないに関わらず、緊急性が高いと判断していたのなら、他人に任せるのではなく、自分の口で伝えるべきだったのだからね。松島さん」

「え?」


つまり責められるべきは私だと?

たしかに非はある。

日沖さんのことも、結果報告の方法も、反省すべき点は多い。

 
「申し訳ありませんでした」


素直に認め、謝罪した。

でも、その必要もないと戸澤先生は言う。


「次、同じ間違いをしなければそれでいいよ。遺族も訴えることはしないと言っているし。むしろ感謝してくれているんだ。ですよね?事務長」


戸澤先生は落ち着いた声で事務長に話を振った。


「まぁ、そうですね」

「どういうことですか?」


昨夜の電話越しに聞いたご家族の言葉の数々は訴えられてもおかしくない様子だったのに、感謝している、だなんて、考えられない。

それこそ経緯を教えて欲しいと事務長を見るも、閉口したまま。


「じゃあ、今のこの時間はなんなんですか?ご家族に状況を説明をするためじゃないんですか?」


日沖さんが聞くと、戸澤先生が答えてくれた。


「午前中に受診して、夜間急変。たしかに説明が必要な事例だ。でも、責任の押し付け合いとか、犯人探しをするんじゃなくて、同じことを繰り返さないために、起きてしまったことをきちんと振り返り、今後の役に立てる。僕たちが今、していることはそういうことさ」


もっともな話に納得しそうになる。


「でも、残されたご家族に誠意ある説明をすべきなのではないですか?」


疑問を口にすると、戸澤先生がこちらを見た。


「なんて?」


戸澤先生の軽い声が会議室内に響いた。

それに対して黙っていると、戸澤先生はいつも通りの、温和な口調で話し出した。


「『スタッフとのいざこざが原因で緊急性のある報告を怠り大事に至りました。申し訳ありませんでした』って?そんな説明されたってそれこそ患者は返ってこないし、遺族も納得しない。いいって言ってる事をわざわざ荒げてなんになる?それともきみが全責任を取れるのか?謝罪するのも、説明するのも、責任取るのも全て医者なんだよ。そこ、分かっている?」


技師や看護師は医師の指示の元で動いているに過ぎないから、医療現場で起きた事象のほとんどの責任は医師に向いてしまう。

戸澤先生は感情を押し殺し、そこをあえて教えてくれたのだ。

戸澤先生の話しに反論すら失礼だと思った。

未熟で責任さえ取れない下っ端だということを痛感させられただけ。

それがどうにも悔しくて、情けなくて、患者さんに申し訳なくて、目に涙が浮かんできた。

溢れないよう、唇を噛むことで、必死に堪える。

そんな折、会議室の扉が開いた。

一斉にそちらを見ると、不機嫌さを全面に出した尚さんが立っていた。


「まったく、朝一の忙しい時間に呼び出されたからなにごとかと思えば。私の大事なひとをいじめないでもらえますか?」

「い、いじめてなんていませんよ」


事務長の焦ったような声。

でも尚さんは振り向かず、そのまま真っ直ぐ私の近くまで来た。


「大丈夫か?」


頷くことも、首を振ることも憚れて、ただ俯くしかない。

そんな私の肩を尚さんは抱いた。


「まったく。俺の嫁を泣かせないでくださいよ。戸澤先生。彼女に責任なんてあるわけないでしょう?」


いつもよりも固く鋭い声に、戸澤先生が身構えたのが視界の端に見えた。


「なにしに来た?きみは呼ばれていないだろう?」

「いえ。事務長から呼ばれましたよ。今後のために話し合いに加わるように、って」


怪訝そうに顔を歪めた戸澤先生は事務長の方を睨み見た。

対して事務長はしれっと顔を背け、尚さんに話を振った。


「嶋津先生から言いたいことはありますか?」

「ないですね」


拍子抜けするほどあっさりとした答えに、事務長がコントのようにガクッと肩を落とした。


「じゃあ、なにしに来たんだい?あぁ、きちんと緊急性を報告しなかった松島さんの責任になりそうだから、守るために来たのか?優しいね」


大袈裟な言い方をした戸澤先生に、尚さんは鼻で笑った。


「婚約者だから?そんなこと関係ありませんよ。松島さんにはあとでしっかり注意します。戸澤先生がおっしゃる通り、緊急性を感じていたなら自分の口で伝えろと。ただ、患者が急変した。防げた可能性があるのに助けられなかった。その事例に関わった者として、議事録に名前は残しておいてもらおうと思ったんです」

「素晴らしい心掛けだな。松島さんも見習うといいよ」


私に話を振った戸澤先生に、尚さんが言った。


「先ほどからやけに松島さん、松島さん、と彼女の名前を連呼して、話題を彼女の方に向けているようですが、戸澤先生はそんなに松島さんのことを信頼して、さらには検査データを重要視しているんですか?」

「なんだと?」


それまで温厚だった戸澤先生の顔と声には明らかに不愉快さが混じっている。

でも、尚さんは臆することなく、戸澤先生に向かって意見する。


「検査データはひとつのデータでしかない。患者を診て、画像を見て、すべて総合的に判断していれば、わざわざ血小板の値にひと言付け加えられなくとも、小野寺さんを帰してはいけないことくらい、気付けたはずです。それに、そもそも検査データはパソコン上で確認出来るでしょう?確認を怠ったか、検査データにきちんと目を通していなかったのか、技師が連絡して来なければ緊急性はないと判断しているのか。どれかは分かりませんが、報告書を渡したとか、渡されてないとか、そこは問題にはならないんですよ」


尚さんが淡々と、でも一気に言うと、それまで黙っていた伊東先生が小野寺さんのご家族について付け加えた。


「小野寺さんのご主人は地元の権力者だそうですね。ここからは憶測でしかありませんが、政治力が欲しい戸澤先生にはご主人の存在しか見えていなかったんじゃないでしょうか。患者を診ていなかった」

「そんなことあるはずないだろ」


怒気を含んだ言い方が、伊東先生の仮説の信憑性を高くしているように感じさせる。

でも、小野寺さんのご家族は感謝しているらしい。

それも戸澤先生に対して。

なぜ。

その答えをくれたのは伊東先生だった。


「嶋津先生はきちんと患者さんに向き合いました。無理な状況だと分かっていても、必死に。それこそ嶋津先生の命が削られていくのではないかと思えるほど必死に救命処置を施していました。その姿を見て、ご家族は納得されたんです。あとから来られた戸澤先生はただの手柄の横取りです」


伊東先生に言われて、戸澤先生は怒りで体を震わせている。


「覚えていろよ。バカにしたこと。後悔させてやるからな」


戸澤先生の言葉が日沖さんのものと重なって聞こえ、思わず日沖さんを見ると、苦笑いを浮かべて肩を竦めて見せた。

その瞬間、私たちの蟠りは解決したのかもしれないと思った。

それと、伊東先生も。


「戸澤先生。伊東先生のお父様は大学病院の教授です。しかも次期院長とか。なので、敵に回さない方がよろしいかと」


事務長がコソッと耳打ちした情報に、戸澤先生の顔が青ざめたのが分かった。

伊東先生の立場は完全に守られた。



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