結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです

「お洒落なお店をご存知なんですね」


アンティーク家具に囲まれたレトロな雰囲気の店内はコーヒーの香ばしい香りでいっぱいだ。


「夕食は?」


席に着いたと同時に伊東先生に確認され、母が用意しているはずだと答えると、メニューに目を落としながら伊東先生が言った。


「食欲、ありませんか?」

「いえ。本当に母が」


言いかけてやめた。

同じことを2度言うのは余計に誤魔化しているみたいだから。


「伊東先生はどうぞ遠慮なさらずに」

「いえ。ひとりで食べるのは味気ないので。また今度。正式にお誘いします。でも、それは難しいかな」


どういう意味なのかと首を傾げると、伊東先生はそれには答えず、2人分のココアを頼んだ。


「ココアですか?」


勝手、というのは言い方悪いけど、頼んでもいないものを注文されて焦った。


「ココアは鎮静効果がありますから」


必要になるような話の内容とはいったい何なのか。

話してくれるのを待っていると、伊東先生は小さく息を吐き出し、店員さんが置いていったグラスに入った水を一口飲んだ。


「今日は告白しに来たんです」

「どのような?」


合いの手を入れると、伊東先生は困ったように眉根を寄せて微笑んだ。


「松島さんのことを好きだと伝えに」

「え?え?!」


驚いて言葉にならない。

その上、伊東先生はさらに驚きの言葉を口にした。



「おそらく今頃、古河さんも嶋津先生に告白していると思いますよ」


胸がざわつき、落ち着かなくなる。

伊東先生がココアを頼んだ意味がわかった。

でも、そのココアはまだ届かず、伊東先生がしたように、お水の入ったグラスに口をつけ、なんとか平静を装うも、水に効果はなかった。


「あ、あの」


動揺して言葉もうまく出てこない。


「大丈夫ですよ」


伊東先生が優しく声をかけてくれた。


「嶋津先生は古河さんを選ばないし、古河さんも僕と同じように振られるのを前提とした告白しかしないし、出来ません」

「どうしてそう言い切れるんですか?」


やっと聞くことが出来た。

にも関わらず、タイミング悪くココアが運ばれてきてしまい、会話は中断。

温かい湯気が漂うココアを伊東先生はひと口飲んだ。


「どうぞ。松島さんも飲んでください」

「あ、はい。頂きます」


飲む気はあまりなかったけど、温かくて甘いココアは気持ちを落ち着けてくれる。

ホッと息を吐き出すと、伊東先生が古河さんとの約束を詳しく話してくれた。


「古河さんがずっと嶋津先生を好きだったことは前にお話ししましたよね?」

「ええ」

「古河さんの気持ちは婚約者がいると分かっても引き下がることが出来ず、さらにはおふたりの間に入り込むしかない理由もあるんです」


理由に関しては前回聞いてもはぐらかされてしまったので、あえて追求せず、伊東先生の話の続きに耳を傾ける。

すると、結婚間近で破談になった経験をした古河さんが、私のことを心配して元彼である伊東先生に連絡したことを教えてくれた。


「『もし、松島さんが傷付く結果になった時、そばで支えてくれるひとが必要だ』って。僕が嶋津先生を恨んでいることを知っていながら、ひどいですよね」


伊東先生は笑い話のようにして話しているけど、温厚な伊東先生の口から放たれた『恨む』という単語は違和感しかない。

尚さんが婚約者の心を奪った張本人なのだから仕方ないといえば仕方ないのだけど。


「そもそも古河さんは伊東先生がまだ想っていることをご存知ないんですか?」

「古河さんは僕が松島さんに惹かれていることを知っているんです」


ややこしい答えに、頭の中が混乱する。

伊東先生が私に惹かれていることを古河さんは知っていて、古河さんは伊東先生に連絡、相談した……。

それはつまり"私が傷ついた時、伊東先生が支えになるように"ということに繋がるのか。

先程、伊東先生が話してくれた古河さんの言葉とリンクした。


「分かって頂けたようですね」


伊東先生が私の表情を見て言ったので、頷くと伊東先生も頷き、また話を続けてくれた。


「僕との婚約が上手く運ばなかった時、落ち込んだ古河さんを支えたのが嶋津先生でした」


『家庭のことは伊東に任せて、その間、気分転換に違うことをしてみたらどうだ?』

仕事が好きで、在宅看護に興味があった古河さんに、勉強に打ち込むようきっかけを与えたのが尚さんで、経験が大事だと言って、その時ちょうど手を必要としていた尚さんの祖母の介護を紹介したのも尚さんだった。


「嶋津家は献身的に看護してくれる古河さんをとてもよく思い、全面的に受け入れてくれました。伊東家と正反対の温かい対応。それから嶋津先生がくれた気持ちの支え、カッコ良さ、医療に対する姿勢に触れて、古河さんの中で気持ちが移り、吹っ切れてしまったんです」


視線を落とした伊東先生の表情を見て、胸が切なくなった。

カップに手を伸ばすも、冷たくなったココアに鎮静効果は期待出来そうにない。

尚さんが気分転換だなんて言わなければ、ふたりで乗り越え、ふたりで解決出来たかもしれないし、そうすれば古河さんが入り込むことはなかったし、尚さんのご家族も古河さんを気にいることもなかったのに、と思わずにいられない。


「ごめんなさい」

「伊東先生が謝ることじゃないですよ」


手と首を振って見せるも、伊東先生は頑なに自分のせいだと言う。


「元はと言えば両親を説得し、古河さんの気持ちをつなぎ留めておけなかった僕がいけないんです。それでも落ち込みました。落ち込んで落ち込んで嶋津先生を恨み始めるようになった時、松島さんをお見かけしたんです」


話が振り出しに戻った。

黙って続きに耳を傾ける。


「松島さんのことは初めて見たときから気になっていました。綺麗で品があって大人しそうで。両親が古河さんを反対した理由が『仕事を辞めて欲しいって言っても頑なに拒むくらい頑固だから』ということだったので、松島さんのように誰もが守ってあげたくなるような容姿の持ち主なら両親も反対しないだろうな、って見ていたんです。まさか嶋津先生の婚約者として紹介されるとは思いもしませんでしたが」


私だって仕事を辞めて欲しいと言われても辞めないと言うだろうと思った。

でも口を挟むタイミングではなかったので、そのまま黙っていると、伊東先生は水を一気に飲んだ。


「おかわり、お願いしますか?」

「いえ。大丈夫です」


話が終わっていないのに変なところで口を挟んでしまったことがいけなかった。


「すみません」


謝ると、伊東先生は柔らかく微笑んでくれた。


「いえ。僕も一気に話し過ぎました。でもあと少しです。聞いてもらえますか?」


言われてしっかり頷くと、伊東先生も同じように頷き、ゆっくりと話し始めた。


「松島さんが嶋津先生の婚約者だと知って、好都合だとも思ったんです。僕がされたように、嶋津先生から大事なものを奪ってやるって。だから古河さんの申し出を受け、松島さんにもこうして告白していたわけなのですが、冒頭でも言った通り、古河さんも僕もはなから成就するとは思っていません。嶋津先生はかなり必死にご両親を説得しているみたいだ、と古河さん伝に聞きましたし」


伊東先生の言葉から、今でも古河さんと嶋津家に関わりがあることが伺えた。

そういえば前に伊東先生は、尚さんのご両親は古河さんを選ぶと言っていたし、古河さんは介護の面で嶋津家と関わり、気に入られていると聞いたばかり。

どんなに尚さんが頑張ったところで、私が受け入れられないのは目に見えているのに、それを理由に成就しないとはどういうことなのか。

少しずつパズルのピースが嵌っていく感じはするけど、不安はなにひとつ解消されない。


「そんな不安そうな顔をしないでください」


伊東先生に言われて、いつのまにか俯いていた顔を上げる。


「嶋津先生との婚約が破談になったらいつでも飛び込んできてくれて構わないですから。僕が全身全霊で支えます」


手を大きく広げた伊東先生は口元に笑みを浮かべていた。

でも、瞳には切なさが伺え、伊東先生の不安を感じ取れた。

これははっきり答えなければならない。


「ごめんなさい」


頭を下げ、はっきり言うと、広げていた伊東先生の手が戻った気配がした。

顔を上げ、今度は伊東先生の方をまっすぐ見て言葉にする。


「伊東先生の優しさには本当に救われます。でも、なにも解決していないし、尚さんとのことがダメだから伊東先生に、というわけにもいきません」

「僕がそれでもいいと言っているのに?」

「はい」


もし傷付いても、伊東先生の優しさには甘えられない。

古河さんが尚さんを、伊東先生が私を心の支えにしたのとは違って、私は伊東先生を好きなわけではないし、別の誰かを想いながら甘えるのは、たとえ受け入れてくれたとしても、申し訳ない気持ちをどこかで抱えてしまうと思うから。


「ごめんなさい」


もう一度謝ると、伊東先生はふぅっと息を吐き出した。


「失恋覚悟の告白でしたが、やはり振られるのは辛いものですね。古河さんも同じかな」


窓の外に視線を向けた伊東先生の横顔は今まで見てきた中でいちばん、優しい、慈愛に満ちた表情だった。






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