結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
ラスト 尚サイド
「大好き」
自分の気持ちを言葉にするのを躊躇う杏が言うと、本当なんだな、と思う。
と同時にたまらなく可愛いと思い、理性を保つことが出来なくなる。
真っ白な肌が触れるたびに熱を帯び、赤く染まる。
蒸気し、とろけるような目で俺に訴える杏の姿は何度見ても身震いしてしまう。
こんな姿、絶対に他の男に見せたくない。
今まで何人かの女性と付き合い、それなりの関係を踏んできたが、こんな風に独占したいと思う気持ちは初めてだった。
それだけ俺が杏のことを好きなのだろう。
なにせ、13歳も歳下の女の子に一目惚れしたのだから。
『俺にするか?』
仕事に支障が出ないように、と予防線まで張っていた自分の口から飛び出した言葉に、周りも自分自身も驚いた。
有言実行でいたがために、一瞬で立場を無くした気もした。
でも、周りのスタッフは温かく、特に杏の先輩である香山さんが背中を押してくれた。
『連絡先交換して。予定も確認してデートの日取りを決めちゃいましょう』
淡々と仕切る姿は、仕事の指示を出すかのようで、杏も言われるがままスマートフォンを取り出し、連絡先を交換してくれた。
互いの当直やオンコール当番は日程表を見れば明らかで、香山さんはそれを確認し、指定された日に食事の予定を取り付けられた。
なぜここまで世話を焼くのか。
香山さんが過去に職場での恋愛をしていたことが関係していたようだ。
聞いた話だと、香山さんのお相手は医師で、互いに忙しく仕事をしていたがために、タイミングを逸することが増え、すれ違うようになり別れたらしい。
可愛い後輩に同じような失敗をして欲しくないと思ったのかもしれない。
なにせ、杏は検査科のスタッフにとても可愛がられているから。
おそらくそれは守ってあげたくなるような見た目の他に、素直に指示に従い、文句ひとつ言わず仕事をして、他人の悪口を言わない、かと言ってイエスマンかと言えば違う、自分をしっかり持っている性格が評価されたのだと思う。
はじめこそ俺は杏の可憐な見た目に惹かれた。
だが、何でも吸収してやろう、しっかり勉強して役に立ちたい、患者さんのために早く一人前の検査技師になりたい、という強い気持ちを宿した杏の目を見て気持ちが高揚した。
杏の姿を見るだけで、杏が同じ職場にいると思うだけでやる気が出るなんて、自分でも驚いたくらいいつのまにか俺の目は杏を追いかけていた。
だからどんな理由であれ、香山さんの援護はありがたかった。
ただ、杏の気持ちが置いてけぼり。
そんな印象を受けたから、食事は面と向かうより、横並びで食べられる寿司屋を選んだ。
少しきばりすぎたかな、と思ったのは杏がすごく緊張していたからだ。
『大好きなお寿司なのに、緊張で味がよく分からないです』
正直に気持ちを言葉にした杏を本気で可愛いと思い、手に入れたいと強く思った。
『俺と結婚を前提に付き合ってくれないか?』
二回目の食事の時に気持ちを伝えた。
『はい』
しっかりと俺の目を見て答えた杏に、俺は笑顔を返すことが出来なかった。
互いのことをよく知りもしない上での告白だったから、答えは次回まででいいから、と付け足すつもりだったのだ。
でも、杏は言った。
『嶋津先生がどういう方なのか、私なりに知っているつもりです。先生は私にとっては高嶺の花みたいな存在ですが、私を好きになってくれるのなら、私も応えたいです。私は恋人が欲しいし、結婚もしたいし、先生のことを好きになれると思うので』
好きになれると思うので。
どこまでも正直な杏に、俺は吹き出して笑ってしまった。
杏は不思議そうに俺を見たけど、久しぶりに笑い、この子となら一生笑顔でいられる気がした。
ただ、杏は聞けば答えてくれるが、自身からはあまり話をして来ない。
身の回りで起きていることは同じ職場にいるからある程度分かる。
控えめな杏が動いていると、なにかあったのだろうとも思わせてくれる。
しかし、杏の交友関係を知らない俺は、美人の杏に男が寄って来ないか心配だった。
そしてその心配は的中。
後輩の伊東が杏の姿を目で追っているのを見てしまった。
杏は、といえば、おそらく今までもそうだったのだろう。
男の視線にまったく気付かないし、意識も低い。
だから男は「俺に興味ないんだ」と思って他に目移りするのだろうけど、伊東は違った。
無防備に検査室で寝ていたのは杏の落ち度だとしても、伊東は杏を個別に訪ね、寝顔を見たのだ。
『可愛い寝顔ですね』
今思い出しても腹が立つ。
綺麗な寝顔は俺だけが見れる特権なのに。
一刻も早く結婚しなければ。
ただでさえ人の目を惹きつける杏なのだから、早く自分だけのものにしないとそれこそ仕事に支障が出そうだった。
菊田さんが言っていたように「法で縛る」のがいちばん手っ取り早く、確実な方法だった。
にも関わらず、両親は反対し、遺産相続の問題が発生。
杏も職場で初めてのトラブルに巻き込まれ、結婚自体が全然進まなくなってしまった。
正直、この事態は焦った。
杏がこの躓きで俺との結婚を諦めてしまったらどうしようと考えてしまったのだ。
不安で、杏には余計なことを言えなかった。
家庭の問題を話せば杏を巻き込み、遺産のことを気にして俺から離れてしまうかもしれないと思ったのだ。
だが、杏には話すべきだった。
俺に対する杏の気持ちはそんなに弱いものではないと、俺が信じてやれていなかったのだ。
『嶋津先生のことちょうだい、って言った時、一度目は無言だったけど、二度目ははっきりと『尚さんを信じて、必ず結婚します』って宣言しましたよ』
古河さんは自身の気持ちを暗に俺に伝えながら、杏のことを口にした。
「好きです」と素直に言葉にさせてあげることすら出来なかったのだな、と気付いた時は、偉そうなのかもしれないが、本当に申し訳なく思った。
遺産相続にも勝手に巻き込んでしまったし。
もっとも相続に関しては古河さんがケアマネージャーとして独立する時、資金援助をする話でまとまった。
だから古河さんにとって悪い話ではなかったのだろうけど、金で解決した感が否めず、古河さんの気持ちを想うと俺の中で煮え切らないものが燻り残っていた。
それが解消されたのは伊東との結婚報告を受けた時だ。
『資産がある家に嫁ぐから援助は要りません…と言いたいところですが』
古河さんは満面の笑みで言った。
『貰えるものは貰っておきます』
『その方が嶋津先生も気持ちがスッキリするでしょう?』
古河さんに続いて伊東が言った。
伊東は俺の心のうちをしっかりと見透かしている。
そしてふたりは互いにしっかり者…というよりしたたかだ。
ご両親が反対しないように既成事実を作り上げたのだから。
「俺たちも子供、出来たらいいな」
伊東と古河さんの結婚式の数日後。
ふたりの写真をアルバムにしてプレゼントするのだと言って、張り切って作成している杏の背中に呟いた。
すると杏はソファーに座っている俺の方を振り向いて言った。
「それって子作りしようって言っているんですか?」
「ん?あぁ。ハハハ」
なるほど、子作りか。
解釈の違いこそあっても、その通りだ。
真面目だけど、面白い。
「杏といると本当に笑顔でいられるよ」
「そう、なんですか?」
不思議そうに首を傾げる杏を、ソファーから降りて、背中から抱き締めた。
「杏」
「なんですか?」
面と向かって聞くのはさすがに恥ずかしいから背中越しに。
「俺のこと好きか?」
「当たり前のことを聞かないでくださいよ」
不満そうな声。
でもはっきり答えてくれる。
「大好きですよ。尚さんは?」
「俺も。もちろん、大好きだよ」
FIN