結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
職場
「一昨日の当直、嶋津先生だったんだけど」
10歳上の先輩技師、関谷美琴(せきやみこと)さんと一緒に食堂でお昼御飯を食べているところに、2歳年上の看護師の古河保乃(こがやすの)さんがお弁当片手にやって来た。
ボーイッシュなショートカットの髪型が小顔に似合う古河さんは、先月入社してきたばかり。
訪問看護を専門とするケアマネージャーの資格を持つ古河さんは、若いのに勉強熱心で、知識と経験が豊富とあって院長がヘッドハンティングしてきた優秀な方だ。
分からないことを分からないままにしないという信念から、検査のことで分からないことがあるとわざわざ検査室にまで足を運んで来てくれる。
職種を超えてでも知りたいと思う探究心には技師長も一目置いており、なおかつ、検査室に来てくれるおかげで、カルテ上では分かり得ない患者情報を交換することが出来、仲良くもなれた。
その古河さんが何かあったのかと疑うほどの不機嫌さを全身から滲み出している。
「伊東先生の都合で変わったそうですよ」
当たり障りのないところで、質問の答えを口にすると、古河さんは整った顔を歪めた。
「何かあったの?」
関谷さんが聞くと、古河さんはボソっと呟いた。
「伊東先生だと思って、ほとんどメイクしていなかったんです」
「え?」
関谷さんと声が重なってしまった。
互いに顔を向き合い、また古河さんの方を見ると、古河さんはそっぽ向いていた。
照れた感じはとても可愛いけど、胸が騒つく。
「仕事のトラブルとかじゃないの?」
関谷さんが聞いた。
「違いますよ。まぁ、たしかに嶋津先生とは考え方の違いで言い合うようなことがありますけど、嶋津先生って根本は患者想いじゃないですか。だから私、嶋津先生のこと好きなんです。あ、でも松島さんと付き合ってるって最近知って」
今頃、と思ったけど、私と尚さんの交際は周知の事実だったからあえて古河さんに話す人はいなかったのだろう。
「それ、本当なのか聞きたかったの。ねぇ、結婚するって本当?」
身を乗り出して聞かれると目力があるせいで圧がすごい。
でも答えはひとつ。
コクっと頷くと古河さんの表情が固まった。
古河さんの気持ちが全てわかるわけではないにしても、古河さんの本気が伝わってきて、胸に重いものがのしかかった。
「恋人募集中の話をしている最中に告白されたのよね」
黙ったまま見つめ合う私と古河さんを見兼ねて、関谷さんが古河さんの肩に触れながら言うと、古河さんは肩を落とし、なされるがまま椅子に座った。
「院内のみんながふたりの関係を応援して、今では祝福されてるの」
「でも」
関谷さんの言葉に被せるように、古河さんは視線を下げたまま、小さな声で言った。
「それって、告白されたら誰でも良かったってことだよね?」
『タバコを吸わず、違法行為をせず、真面目に働いていれば…あと、父親より年が上じゃなければいいです』
自分の口から出た言葉だ。
それを思い出した上で頷いて見せると、古河さんは顔をガバッと上げた。
「じゃあ私に嶋津先生ちょうだい」
どうしてそうなるのか。
混乱する私の隣でまた関谷さんが間に入った。
「松島さんはもう嶋津先生の婚約者なの。ご両親にもこの前の休みに会いに行ったんだよね?」
「あ、はい」
答えに詰まった私を、古河さんは見逃さなかった。
「ご両親、認めてくれた?認められていないんでしょ?」
真っ直ぐな古河さんの視線を受けて、嘘がつけるはずがなく。
「出直すことになりました」
正直に答えると、古河さんは肩に入っていた力を抜き、軽く微笑みながら、お弁当を開け始めた。
「良かった。それならまだチャンスはあるわね」
「いやいや、待って」
関谷さんがまた間に入った。
「婚約している時点でチャンスはないわよ。ていうか、事を荒げるならもう少し前にしなさいよ」
「え?ハハ。前なら良かったの?」
古河さんが関谷さんの言葉に吹き出して笑った。
それで空気は一変。
「別に。荒げようなんて思ってませんよー」
軽い口調の古河さんは和かに微笑むと、お弁当を頬張り始めた。
「それならなんでこのタイミングで嶋津先生のことが好きなんて言ったのよ?」
事を荒げるな、と忠告しておきながら、関谷さんはこの話を掘り下げていく。
きっと、なにも聞けない私を気遣ってくれているのだ。
言葉を飲み込み、言いたいことを我慢してしまう私の性格を知ってくれているから。
関谷さんに感謝しつつ、黙ってふたりの話に耳を傾ける。
でも、古河さんはそこを指摘してきた。
「松島さんは『ダメ』って言わないじゃないですか」
「ここで言ったらもめ事になるでしょ。仕事がやりにくくなるのは嶋津先生的に勘弁なのよ」
関谷さんは論点を少しずらしてくれた。
「古河さんも分かるだろうけど、嶋津先生はあの容姿とスペックの持ち主だからとにかくモテるの。でも、恋愛の縺れで仕事に支障をきたしたくない、って嶋津先生本人が言っていたから、おかげで今まで何事もなく済んでたの」
関谷さんはそこまで言うと、私の方を見た。
「松島さんだけが嶋津先生の特別なの。その松島さんがもめ事を起こすわけにいかないのよ。だから、古河さんも諦めたら?」
「それは出来ません。好きなものは好きだし、恋人の存在には驚いたけど、気持ちを伝えないといけない事情もあるので」
静かな声で言い終えると古河さんは俯いた。
余程の事情があるような様子に、関谷さんはため息を吐きながら、首を横に振った。
「どうやら他人が口出しできる状況じゃなさそうね。私、先に失礼するわ」
関谷さんは定食のトレーを手にして席を立った。
「私も」
私は関谷さんの言う『他人』ではないし、気になることもあるけど、黙々と食事を続ける古河さんは話す気がなさそうだし、事情とやらにいきなり踏み込んでいいものではない気がした。
関谷さんに続こうと急いでお弁当を片付けた。
「あ、あの。お先に失礼します」
なにも言わないのも失礼だと思って、小さく声を掛けると、古河さんは小さな声で謝った。
「ごめんね」
足が止まった。
そんな私を古河さんは見上げて、切なげに微笑んだ。
「本当にごめん。非常識だよね。でも、負けられないの。だから宣戦布告。よろしく、ね?」
「は…い」
としか答えようがなかった。
ふに落ちないことはあっても、そもそも結婚していない今の状況では恋愛は自由だから。
ただ、婚約中の仲に入り込んでくる覚悟のある古河さんに、私は対抗出来るのだろうか。
「大丈夫よ」
眉間にシワを寄せて歯磨きをしている私に関谷さんが慰めの言葉をかけてくれた。
「嶋津先生はスタッフの目を気にせず告白してくれたくらい、松島さんのことが好きなんだから。自信持つのは苦手かもしれないけど、持つのよ」
優しい関谷さんの慰めの言葉には、そんなことない、と否定したくなる気持ちより、ありがたいという気持ちが勝るのに、心は全然落ち着かない。
「マスクする?」
引きつる口元に気付いた関谷さんからマスクを一枚もらい、関谷さんより先に更衣室を出た。