結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです


「長田さん。長田誠さん。こんにちは」


二人部屋の窓側。

気力なく、ベッドに横たわる細身の男性の口元には、つい先程も吐血をしたのか、血液が付着している。

顔色は青白く、肩で呼吸。

呼びかけに反応するようにこちらに顔を向けてくれたけど、具合はかなり悪そうだ。

事前に確認した血液検査の結果は高度の貧血状態。

早く輸血を開始した方がいい、という逸る気持ちを抑えつつ、手に持っているバットをテーブルの上に置き、マスクを顎まで下げて、胸元のバッジを見せることから始める。


「臨床検査技師の松島です。長田さんの血液型についてご説明にあがりました」


長田さんは『血液型』という単語を耳にした途端、怪訝そうな顔をして、横を向いてしまった。


「俺はO型だ。O型以外は受け付けない」


嫌がるだろうと想定していたからここは特に気にせず、マスクをつけ直し、少しテンションを上げて長田さんの目の前に青色と黄色の液体の入った小瓶を差し出す。


「これ、なんだか分かりますか?」

「んなもの、分かるわけねーだろ」


ですよね。

でも見てくれた。

視線がこちらに向いているうちに急いで蓋を開け、ベッドサイドで中の液体を片手に持っている専用の紙の上に垂らす。


「これは血液型を調べる試薬です。滅多に見られるものではありませんから、どうぞ見ていてください」


そう言ってから私は、アルコール綿で自身の人差し指を消毒し、ランセットと呼ばれる小さなカッターで傷をつけた。


「お、おい!大丈夫かよ?!」


目の前で指に傷を付けた私を長田さんは心配してくれたようで、体を起こした。

急に起きたものだから体がフラついている。

急いで傷のない方の手で体を支え、ベッドを起こし、長田さんの体勢を整えた。


「悪いな」

「いえ。具合が悪くなったらすぐに言ってください。私の方は、このくらいの傷じゃ、全然問題ないので。それより見ていてくださいね」


傷口からにじみ出ている血を試薬に垂らし、指にカットバンを貼ってから、試薬と自分の血液の入った専用の用紙を手に取る。

それから両者が混ざり合うようにクルクルと動かすと、青い試薬に垂らした血液がポロポロと固まり始めた。


「私の血液型はA型です。A型はこんな風に青い試薬に対して血が固まるんです」

「他の血液型は?」


興味を持ってくれたのか、長田さんの方から積極的に声をかけてくれた。

それに対してまた笑顔で答える。


「B型は黄色い試薬で血が固まり、AB型はどちらにも固まります。反対に、O型は青い試薬にも、黄色い試薬にも反応しません。固まらずに混ざるだけです」


説明に対して黙ったまま、私の手元を見つめている長田さんに満を持して話を持ちかける。


「長田さんの血液型も調べてみましょうか」

「俺はO型だ…が、いいよ。そこまでしてくれたんだ。やるよ。O型だって証明してくれよ」


それは無理なお願いだけど、ひとまずよかった。

ホッと胸を撫で下ろし、気持ちを新たに試薬と採血の準備を整える。


「では長田さんの血液を少しだけ頂きます。指はおそらく腕より痛いですし、手を洗ったりするときに沁みるので、耳朶から採血させてください」

「ちょっと待て。お前、看護師じゃないんだろ?しかも耳たぶ?!採血なんて出来るのかよ?」

「出来ますよ」


長田さんの疑問に答えたのは私ではない。

聞き覚えのある声に振り返ると背後に白衣姿の尚さんが立っていた。


「いつからそこに?」


驚きを隠せず、言葉にしたものの、尚さんは、私の手から注射器を取り上げ、長田さんに話し始めた。


「臨床検査技師も採血が出来るんです。でも、傷付いている彼女の手では失敗するかもしれませんから、わたしが代わりに採りましょう」


見られていたことに全然、気付かなかった。

それより、たしかに採血は医師に任せた方が確実だ。

身を引き、尚さんに場を譲る。

にも関わらず、尚さんの動きは止まり、ランセットを私に返してきた。


「やはりきみが採りなさい。傷は利き手に付けていなかったよな?」

「え?あ、はい」


取り上げたのは尚さんの方なのに。

そう心の中で独りごちながらもランセットを受け取ると、尚さんは私の背後へと回った。

見られている。

背中越しに伝わってくる視線。

感覚的な問題だけど、恋人に向ける類のものではない。

やりにくささえ感じる雰囲気に飲まれそうになるのをグッと堪え、長田さんに向き合う。


「長田さん。ちょっと失礼しますね」


渡されたランセットを一旦置き、医療用の手袋を付けてから、長田さんにアルコールにかぶれないことを確認し、口元に付いている血液をアルコール綿で拭き取らせてもらった。

次に長田さんの耳たぶを消毒。

左手で耳たぶの裏側に触れ、浅く、でも血が出る程度に針を刺す。


「痛…くない」

「それは良かったです」


血液の量はさほど必要ない。

毛細管と呼ばれる細い管に滲み出た血液を採り、先程と同じ要領で、血液を青い試薬と黄色の試薬にそれぞれ1滴ずつ滴下し、用紙を手に取って、クルクルクルクルと混ぜていく。


「あ!」


尚さんが私の代わりに長田さんの耳たぶの傷口にカットバンを付けてくれている時、長田さんが声を上げた。

それもそのばす。

青い試薬に長田さんの血液が反応したのだ。


「やはり長田さんは私と同じA型です」

「でも俺はずっとO型って言われてきたんだ。こんなことってあるのかよ?」


混乱している長田さんは尚さんを見上げた。

それを受けて尚さんが長田さんに質問した。


「最後に血液型を調べたのはいつですか?」

「産まれたばかりの時だな。親から教えられて。母子手帳にもたしか記載されてたと…それ以外では受けたことないから」


現在は、3歳くらいまでは正確に検査出来ないとして、出生時の血液型検査はほとんど実施されていないが、30年前は当たり前に検査が行われていた。


「俺はずっと間違って覚えていたのか?」


まだ信じ切れていない長田さんの様子を見て、尚さんの方を見る。

すると、私に頷いてきたので、血液型に関する詳しい説明を加えさせてもらった。


「血液型は今見せたオモテ検査と呼ばれるものの他にウラ検査と呼ばれる検査も実施します。その両方の結果が一致して初めて血液型は確定します。さらに、輸血となれば実際に患者さまの血液と輸血の血液を混ぜ合わせて拒絶反応がないかどうかも確認しています」


そこまで言ってからひと息つき、血液製剤を手に取り、長田さんに見えるように差し出す。


「この血液が長田さんの体に入っても問題ないかどうかは、きちんと検査を済ませています。それでも万が一に備えて輸血開始からしばらくは様子を見させていただきます。万全の態勢で臨みますので、輸血を開始して構わないでしょうか?」


一番重要なことを最後に確認すると、長田さんは時間をかけてゆっくり、頷いてくれた。 

それに応えるように私も頷き、ナースコールを押すと、古河さんが入って来た。

昼間の一件を思い出し、私の体は固まってしまう。

でも、古河さんは何事もなかったかのように、いつも通りの明るい声で長田さんに声を掛けた。


「長田さん!来てくれた技師さんが、若くて綺麗な子で良かったわね。先生にまで診てもらっちゃって。輸血しないわけにはいかなくなっちゃったねー」


古河さんは笑顔で話しかけながら、てきぱきと輸血パックを点滴台に掛けていく。

長田さんの表情も、古河さんのからかい口調が効いたのか、少しだけ和らいだ。

プロだな、なんて、言えた立場にないけど、作業をしながらしっかり患者のフォローまでする古河さんの姿を見て感心した。

でも、直後、古河さんの手が止まった。


「あ。ごめんなさい。忘れ物しちゃったみたい。長田さん。ちょっと待ってて」


古河さんは長田さんに声を掛け、一旦部屋を出て行ってしまった。

見る限り、あとは血液を点滴のルートに流すだけなのに。

不思議で尚さんを見上げるも、肩を軽く竦めて見せただけで、出て行ってしまった。

忘れ物っていったい何なんだろう。

それと私はどうしよう。

本来なら検査技師は輸血開始に同席しないから、部屋を出るタイミングなのだけど、A型と書かれた輸血パックを目にして、不安そうに顔を歪めている長田さんをひとりにすることは出来ない。

ゆっくりと近付き、背中に触れる。

すると小刻みに震えていた。


「情けないよな。輸血が怖いなんて」

「初めてのことはなんでも怖いですよ」
 

まして思っていたのと違う血液型の血が体に入るのだ。

説明したところで不安は拭えないだろう。


ゆっくり、優しく、少しでも緊張が和らぐように背中をさする。

すると間もなく、古河さんが戻ってきた。


「どうしたの?長田さん、気持ち悪い?吐きそう?」


背中をさすっていることが古河さんには嘔気に思えたようだ。


「いや。大丈夫だよ。緊張をほぐしてもらってたんだ。ありがとう。もう大丈夫。輸血。やるよ。よろしくお願いします」


意思のはっきりとした声に、古河さんは私を見てから、長田さんの方を向き、ニコリと微笑んでから時計を見ながら血液を落とした。


「気分は大丈夫ですか?」


古河さんの声に長田さんが頷いてみせたのを機に、私は部屋を後にした。

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