結婚するには乗り越えなくてはいけない壁があるようです
「具合はどうだ?」
その日の終業後。
尚さんの自宅マンションで夕飯を並んで作っている時、唐突に聞かれた。
「具合ですか?」
身に覚えのないことに首を傾げると、尚さんは私の口元を指差した。
「マスク、してただろ?病室から杏の声が聞こえた時、くぐもった声だったから気になって顔出したんだ」
「そうだったんですか」
長田さんは尚さんの受け持ち患者ではなかった。
だからどうしてあの場に尚さんが顔を出したのか疑問だったのだけど、心配して覗いてくれただなんて、普通に嬉しい。
とはいえ、引きつる口元を隠すため、とは言えなくて。
「予防です」
誤魔化してみたけど、どうだろう。
「そうだな。そろそろインフルエンザの予防接種、受けないといけないしな」
まだ流行はしていないけど、予防接種は今月から始まっている。
都合良く解釈してくれたことにホッと胸を撫で下ろし、私自身も予防接種をいつ受けるか、いつがベストなタイミングか考える。
そんな中、尚さんがまた質問してきた。
「杏は検査技師になって何年になったんだっけ?」
「3年目ですが、どうしてですか?」
味噌汁の出汁を取っている尚さんに聞き返した。
「今日、久しぶりに病棟で杏の仕事を目の当たりにしたから」
「私は尚さんがお仕事しているところ、よく目にしますよ」
検査室に引きこもっていたら当然、見ることはないけど、外来や病棟でスタッフに淡々と指示を出す姿や、患者さんと真摯に向き合う姿、処置をしている姿など。
「見るたびに、素敵だな、私も技師として出来ることをしっかりやらなきゃ、って思うんです」
今日は古河さんの仕事する姿を目の当たりにして、刺激を受けた。
私も古河さんのように無駄のないテキパキとした仕事ができるようになりたい。
尚さんのように全幅の信頼を寄せてもらえるようになりたい。
「明日からも頑張らなきゃ」
独り言のように呟くと、隣で尚さんが笑った。
「杏は真面目だな。それに器用だからこれから伸びるよ」
尚さんの方を見上げると、視線がゴボウを細切りにしている私の手元に向けられていた。
「こんなの器用って言いませんよ。むしろ私、不器用な方です。お裁縫とか苦手ですもん。尚さんは外科医だから器用ですよね」
「人並みよりは、な。でも、杏は器用だと思うよ。採血は無駄がなく手早かったし、患者も苦痛を訴えなかった。あの時、患者の口元の血液を拭ってやったのにも感心したよ。細やかな気配りが出来るのはすごいことだ」
当然のことをしたまででも、褒められると照れてしまう。
「杏は古河さんと似ているんだな」
「え?」
古河さんの名前がなぜここで出てくるのか。
ドキッとしながらも、平静を装い、首を傾げる。
すると、尚さんは出汁に大根を入れながら、古河さんが長田さんの部屋から一度出たのは蒸しタオルを取りに行ったからだと教えてくれた。
「長田さんはかなり不安そうにしてたから、蒸しタオルで目でも温めさせて、リラックスさせたんじゃないか?」
聞かれても頷けなかった。
だって、古河さんが蒸しタオルを持っていたことすら気付かなかったのだから。
「余計なこと、したかもしれない」
「え?」
尚さんに聞き返されて慌てて首を振ったけど、患者さんのことはその時だけ接する技師より、朝から晩まで診ている看護師の方が詳しいし、知識も豊富なのだ。
放っておけなかった、にしても私の行為は出過ぎた真似で、きちんとした対処をしようとして準備してきた古河さんに不快な思いをさせてしまったかもしれない。
餅は餅屋なのだ。
それに……
「私と古河さんは似てないです」
ポツリと吐き出すと、尚さんはグリルに入っている魚の焼き加減を見ながら言った。
「似てるよ。ふたりともよく患者を見てる。長田さんの件で言えば、杏は口元を拭い、古河さんは不安を拭ってあげた。患者想いで、器用で、色々考え込むところ、優秀なところ。すごく似ているよ」
「たったのひと月でそこまで分かるものですか?」
ふとした疑問を口にしたのと、尚さんがグリルを閉めたのが同時だった。
「なにか言ったか?」
グリルの音でかき消されて聞こえていなかったらしい。
だから別の答えを返すことにした。
「私は優秀じゃないです」
「そうか?」
尚さんは困ったように眉根を寄せて柔らかく微笑んだ。
「少なくとも俺は技師としての杏を評価しているが…杏のその自己評価の低さはいつ直るんだろうな?」
「それは……すみません。一生直らないかもしれません。それでもいいですか?」
古河さんのような自己肯定感が強く、明るい人の方がいい、と言われたらどうしようって。
怖いくせに、確認するように聞いてしまう、ずるい自分が嫌だ。
「ごめんなさい。やっぱりいいです。なんでもないです」
今日はなんだか余計なことを口走り過ぎる。
黙って千切りにしたゴボウとニンジンを炒めていると、突然後ろから抱き締められた。
「ひゃっ!なにするんですか?!」
弱火で炒めているにしても火は付いている。
一旦、ガスを止め、危ないと注意するように顔を後ろに向けると、露わになった首元に唇が当てられた。
「なにして……」
言い終えるより早く、尚さんは私の耳元で囁いた。
「どんな杏でも好きだから」
「突然なんですか?あ、ちょっと、くすぐったいです」
話しかけている最中に、耳を甘く噛まれた。
くすぐったくて身をよじると、ギュッと力強く抱き締められ、また耳元で甘く囁く。
「杏は可愛い。赤くなる耳も、守ってあげたくなる感じも、悩んだり、凹んだりしている姿も。全部愛おしい」
「本当にどうしたんですか?」
急に優しい言葉を掛けられて、嬉しい反面、戸惑う。
抱き締められる力が弱まったのを良いことに、クルリと向きを変えて、尚さんを見上げると、ニコリと微笑まれた。
「杏の自己評価が上がるように。俺がどれだけ杏のことを好きなのか、可愛いと思っているか、伝えていかなきゃいけないな、ってふと思ったんだ。親にも杏のこと、杏の良さを伝えたし。ただ」
言葉に詰まった尚さんは、同時に視線を逸らした。
「どうかしましたか?」
気になって聞くも、尚さんはすぐに元の笑顔に戻って、私を見ろした。
「早く結婚して、一緒に住めるといいな。そしたら幾らでも可愛がってやるのに」
そう言うと、尚さんの手が顎に触れられ、上を向かされた。
愛情たっぷりの、ゆったりとした長いキス。
「……ん?」
魚の香ばしい匂いに気付き、目を開けると、尚さんはグリルの火を止めた。
「食事の支度。続けましょうか」
せっかくの焼きたてが冷めてしまったら美味しくない。
「きんぴらごぼうももう少しで出来上がりますから」
菜箸を手に取るも、菜箸が尚さんに取り上げられてしまった。
「食事はあとでいいよ」
尚さんはそう言うや否や、またキスをしてきた。
今度は深く、貪るような熱いキス。
「んっ…」
耐えきれなくて甘い声が漏れてしまった。
それを機に尚さんの手が膝裏に差し込まれ、体がフワリと浮いた。
「わ。ちょっと、尚さん!?」
「黙って」
唇で唇が塞がれる。
それでも抵抗しようと唇を開くと、舌ごと絡め取られてしまった。
でも、ベッドに横たわったところでストップ。
「今日はダメです!私、オンコール当番なんです」
私たちが勤める病院は、その必要性から医師、看護師は当直制を、臨床検査技師にはオンコール制が採用されている。
連絡が来る確率の方が低いけど、緊急性や患者の状態によっては時間、状況を問わず呼び出される。
だから今まで、当番日にふたりで会ったことはない。
ただ、大安の今日は前から婚姻届にサインをする日と決めていたのだ。
尚さんのご両親に受け入れてもらえないというのは互いに想定外のことではあったけど、そこは尚さんが応対してくれているようだし、いずれ来る、両家の顔合わせの時、双方の父親から婚姻届のサインをもらうために、先に私たちの署名をするべきだということで約束していた。
「大事な日だからこそ当番代わってもらえたら良かったんですけど。ごめんなさい」
謝る私を見て、尚さんは眉根を寄せて微笑んだ。
「謝ることはない。残念だけど、今日はこれだけで」
チュッというリップ音が部屋に響いた。
妙に生々しい音にドキドキしながら尚さんを見上げると、いきなり頭からシーツを掛けられた。
「そんな顔するな。止められなくなるだろ」
「え?あ…ふふ」
嬉しくて笑いがこみ上げてきた。
「笑うなよ」
尚さんの不機嫌そうな声に、愛おしさが募る。
褒めてくれたり、愛情を言葉にしてくれるのも嬉しいけど、そんなのは口先だけでどうにでもなるから、態度や表情で見せて貰えると心に響くのだ。
「尚さん」
たまらずシーツを外し、起き上がってベッドに腰掛けている尚さんに抱きついた。
「大好きです」
「知ってる」
自己肯定感が強い尚さんには言うだけ無駄だった。
でも、満足そうに微笑む尚さんが可愛くて、頬に初めて私からキスをした。
「っ!」
驚く尚さんを横目に、いそいそとベッドから降りて、振り返る。
「尚さんのおかげで少しだけ自分に自信が付きました」
「ハハ。跳ね返りがあると俺もやりがいがあるよ」
楽しそうに笑う尚さんを見ると、私まで笑顔になれる。
キッチンに戻り、ふたりで並んで料理を盛り付けている時、食事を取っている時は気恥ずかしさが残っていたけど、尚さんがずっと笑顔でいてくれるように、もう少しだけ積極的になろうと思うようになった。
ただ、婚姻届というものは緊張する。