夫婦はじめ~契約結婚ですが、冷徹社長に溺愛されました~
「今日は確か早めに上がれる日ですよね」
「ああ」
「最近忙しかったみたいですし、よかったです」
「一緒に帰るか?」
「えっ」

 驚いて、手に持っていたお椀を落としそうになってしまった。

「私は構いませんが……」
「帰りに寄る場所は?」
「いえ、特に……」

 春臣さんは平然としている。
 でも、私の胸中は穏やかではない。

(夫婦らしくしてるってことなんだろうけど……)

 お互い、誰かに契約結婚が知られないよう上手くやってはいる。
 ただし、それが上手くいきすぎるのは少し怖い。
 優しくされると嬉しい。
 笑ってくれると嬉しい。
 私はとても単純だった。

(意外といい人なのが困る。……いきなり結婚なんて言うくらいだし、もっと嫌な悪い人だったら割り切れたのにな)

 考え事をしながら皿を洗っていると、ふと背後に気配を感じた。
 振り返る前に後ろから抱き締められる。

「……っ!」

 滑り落ちかけた皿を慌てて掴んだ。
 食器を落としそうになったのはこの短時間で二回目だ。

「どうかしまし――」

 すり、と春臣さんが私の肩に顔を摺り寄せてくるのが分かった。
 異常事態だ――と鼓動が速度を増していく。

「春臣さん……?」

 溜息が聞こえた。
 泡だらけだった手を水で流し、蛇口をひねって止める。
 エプロンで軽く拭いながら、身体ごと振り返った。

「何かあったんですか?」
「いや、別に」

 この人はいつもそう言う。
 こんなことをしておいて、別に何もなかったなどと通用するはずがない。

「夫婦の間に隠し事はだめですよ」
「本物の夫婦じゃない」
「それでも、です」
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