夫婦はじめ~契約結婚ですが、冷徹社長に溺愛されました~
「……すみませ――」
「いや、違うんだ」

 慌てたように遮られる。
 そして、両頬を手で包み込まれた。

「お前でよかった」

 その瞬間、周りの音が何も耳に入ってこなくなる。

「別れた時の話をされたのが嫌だったんだ。だから何か言わなければと思って……」

 私の中を何かが突き抜けて、締め付けられるように胸が痛んだ。

「春臣さん……」
「…………奈子」

 初めて名前を呼ばれる。
 自分でも分からないうちに、頬を涙が伝っていった。

「泣かないでくれ。……泣かせたかったわけじゃない」

 私だって泣きたいわけではなかった。
 なのに、泣いてしまう。
 名前を呼ばれるだけのことが、こんなに心を震わせるとは思っていなかった。

「……誤解されないように伝えるのは難しいな」

 春臣さんが指でそっと涙を拭ってくれる。
 やがて優しい指先はキスに変わった。
 目尻に触れる唇が私の心を震わせて、これまで形にならなかった想いをまとめていく。

(私、春臣さんのこと――?)

「奈子」

 もう一度名前を呼ばれて瞬きすると、ほろりと雫がまつ毛を伝って落ちた。
 見つめ合って静かに息を呑む。
 無意識に目を閉じていた。
 春臣さんの吐息がゆっくり近付いて――。

「――っ」

 その時、あまりにも場違いな着信音が響いた。
 私のではない。春臣さんのものである。

「……誰だ、まったく」

 近付きかけた距離が遠ざかった。
 春臣さんは立ち上がって少し離れた位置へ向かう。
 私はというと、たった今起きかけた出来事にようやく頭が追い付こうとしていた所だった。

(今……キス、しそうだった?)
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