夫婦はじめ~契約結婚ですが、冷徹社長に溺愛されました~
 目をこすって自分の唇に触れてみる。
 確かにここに春臣さんの吐息を感じた。
 もし電話が来なければ、今頃重なっていただろう。

(――――!)

 流した涙の痕が蒸発しそうなほど顔が熱くなる。

(わあああ)

 顔を覆って自分のしそうになったことを忘れようとした。
 けれど、忘れられるはずなどない。
 もう私は自分の気持ちに気付いてしまっていた。
 どうしてもっと春臣さんを知りたいと思っていたのか。
 どうしてもっといろんな表情を見たいと思っていたのか。
 ――どうしてあの瞬間、目を閉じてしまったのか。

(いつ? いつから好きだった? なんで? どうして……?)

 思い当たる節はいくつもあった。
 どんな瞬間も心が甘く騒いで、その度に惹かれていたのだから。

(ど……どうしよう。これからどんな顔をして話せばいい? というより、春臣さんは何を考えて――)

 「どういうことだ、海理」

 緊張感のある低い声に、私の意識は現実へ引き戻された。
 あの春臣さんが声を荒げている。

「……分かった。今からそっちへ向かう」

 険しい顔で言うと、春臣さんは携帯を切った。

「何かあったんですか……?」
「新規事業で進めていた案件のデザインが、他社から発表された。……極秘だったはずのものが、だ」
「え……」

 どの話のことなのか、秘書を務める私にはすぐにピンと来る。
 私たちが結婚をするに至ったそのきっかけとなるクロスタイルの新規事業。
 新しいブランドに使用するデザインが決まったのは、つい先日のことだった。

「どうして……どうして、そんな」
「これから海理に詳細を聞きに行く」

 言い切ると、春臣さんはまだ私の目尻に残っていた涙を指で払った。

「お前も来てくれ」
「はい」

 他人として排除されなかったのが嬉しかった。
 気付いてしまった自分の気持ちを胸に、春臣さんと歩き出す。

(これが落ち着いたら、ちゃんと話そう。これからのことと、私の気持ちと……)

 頭を仕事に切り替え、今後会社が、そして春臣さんがするべきことを考える。
 けれど私は知らなかった。

 ――これが私たちの、夫婦として過ごす最後の夜になることを。
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