夜を迎え撃て
あの男が今の家に居着くようになったのは、半年前の話だ。
私が生まれてすぐに、父が病気で亡くなった。
持病だった。父は、生まれて物心がついた時から既に余命宣告を受けていて、これからの未来を構築する、というより、日々失われていく自分という存在に神経をすり減らして生きていたという。
持って二十歳まで。そう言われて育った父は大学時代に母と出逢い、母は父自身と周囲の反対を押し切って、彼に寄り添うことを選んだ。
たった数年だった。隣にいられたのは。けれど、その日々を一日として忘れたことはないと母は語り、娘の私が言うのもなんだが、ピアノの講師を務め容姿端麗な母が再婚の道を選ばなかったのは、その父の存在が私が想像する以上に大きかったといえる。
そんな母が、男を連れてきた。
母よりも8つも若くしゃんと背筋の伸びたその人は烏のような黒髪にスッとした高い鼻、二重瞼の大きな瞳に私を映すと、桃色の唇に弧を描いて微笑んだ。
30というには少し童顔で、学生服を着せて仮に私の隣を歩いても成立しそうな彼は「笠井聡介さん」という母の紹介に倣って会釈をし、「よろしくねミオちゃん」と笑った。
今思えば言い訳がましいようだけれど、少しだけ違和感があったのだ。確かにあの日、あの端正な仮面の裏にある猟奇性に一瞬私は反応していた。でも疑わなかった。───母が選んだ人が全て。18になるまで私を女手一つで育てた母に絶対の信頼を置いていた。
だから笠井の化けの皮が剥がれた日、やっぱりな、とやけに腑に落ちたのを覚えてる。
だってどうして人を傷つける人間が、初めから鬼の仮面を付けて他人の家に土足で上がり込んでくるだろうか。
「おかえりミオちゃん」
さもここにいるのが当然みたいにこの家に蔓延る笠井は実際のところまだ、私の父親では、ない。
前に寝る前、母から「婚約をしただけで届けはまだ出していないの」と聞かされたことがあるから間違いない。だから彼が事実婚で、苗字が違うのに、でもあまりにこの男の見目が注目を呼ぶことや、隠そうとしない───即ち、住宅街における住民の話題性で笠井は自分自身を母の夫であると知らしめた。
そうであると思い込んでしまえばわざわざそんな野暮なことを訊いてくる人間もいないから、法螺を吹く必要もないわけだ。外堀から固め、私たちの身動きを取れなくした。この男は狡賢い。だからその狡賢さを私は今日、利用する。
「笠井さんは、私の父親ではないんですよね」
居間が丁度北側に面してある家は、来る冬に向けて早めに灯油ストーブの支度をする。
そろそろお母さんがその準備を始めたのか、昨日まで見当たらなかった灯油ストーブが置いてあった。タンクの中は空だ。玄関先にホームタンクが置いてあったから、寒くなったら入れるつもりなのだろう。
「そうだね」
「母と、書面上で結婚はしないんですか?」
「所帯を結ぶ必要性を重んじてないんだ。必要であったらそのとき対処すればいいし」
「追い出されたりしたら、立場弱くないですか」
返事を急ぐあまり言葉が刺々しくなった。しまった、と思うのに笠井は優雅に新聞に目を落としていて、そのマネキンのような容貌に、目に、感情が見えなくて怖気る。
「俺、追い出されちゃうの?」
「そんな、まさか」
にこ、と笑ってソファにもたれた笠井に用意しておいた相槌を投げかける。合わせるように笑うのに、笑顔の中で感情のない目は、一連を聴いていた母を捉えた。でもすぐ目を逸らした彼女は「そろそろ入れておこうか」と灯油タンクを持って廊下に出る。
怯えているのを露骨に表に出すのもこの男の気を逆立てるらしかった。でも大して動きを見せない表情に、だから私は油断した。