夜を迎え撃て
中座する笠井を呼び止めようとするにもトイレだと言われ引き止められない。どうこのあと続けるか、と思い悩んでいたら程なくして母の悲鳴が聞こえた。
それは浴室の方だった。即座に走る私はその場面を目の当たりにして目を瞠る。空の浴槽に突っ込んだ母に向かって、笠井がホームタンクごと灯油をぶっかけていたからだ。やめて、と腕にしがみつくのに圧倒的な力量差で弾き飛ばされる。食らいつこうにも止まらない。
「やめて…やめてよ!!」
「いいですねー翠さん、あなた自分がピアノの講師してて自宅が全部防音壁だからいくらでも悲鳴あげられて。凄く綺麗ですよ」
【ペナルティ】だ、とすぐ思う。
この家には笠井の自己ルールに則った法則が存在していて、口答えした、返事をしなかった、例えばそれが不意の無視でもその時のこの男の機嫌が悪ければ【減点】されていく。それは不規則で定義的なものを持たず、無条件で発動し【ペナルティ】と称して要は、母を嬲るのだ。猫が鼠の死骸を弄ぶように、烏が鳩の死骸を抉るように。
この男の卑怯な所は、まるで犯罪の専門家のように狡賢いやり方で、過失を生まないところだ。専業主婦で月4度のピアノ教室のサイクルを見計らい、見えない場所に傷をつけ、母を肉体的に、私を精神的に徹底して追い詰めていく。私は私が傷つけられるよりも、母は母が傷つけられるよりも、母が、娘がいたぶられる方が辛いのを知っている。
──────私のせいだ。私がこの男の気を逆なでした。それに答えるように、笠井は無表情でポケットから出したライターを着火する。
「ミオちゃんが悪いんだよ。俺のこと追い出そうなんて考えるから」
「……………っごめんなさい……」
「真面目にやろうね。
きみの素行に翠さんの命運がかかってるんだから」
屈辱に震える私をたっぷり堪能してから笠井は屈んで浴槽の中でぐったりする母の腕を持ち上げる。灯油浸しになったその手をそれでも慈しむように眺めたあと彼はねぇ、と問いかけた。
「この腕の真ん中を切り裂いて、杭で生きたまま尺骨を抉り出したら彼女どんな反応すると思う」
「…………やめ……」
「俺思うんだよね。世の中には搾取する側と、搾取される側の人間がいて。それは野生でいう動物の食物連鎖みたいに必要不可欠で俺たちの生活を水面下で賄ってる。
あるいは虐殺的思考は平和に基づくんだよ。だって戦争辞めましょう喧嘩はやめましょう人を傷つけるのはやめましょうーって。その前例がなくちゃ納得に至らしめられないじゃない。ある程度の犠牲は生活の質を向上させる、その証拠にミオちゃん今学校楽しいんじゃない?」
やめて、と泣きながら両耳を塞いで顔を左右に振ったら笠井は涼しい顔で微笑んだ。人を傷つけることを至上の娯楽にしている男は、こんな時、異常なほど真っ当な顔をする。
「俺も一緒。
愉しすぎて、どうにかなっちゃいそうなくらい」
憔悴した母の手当てをしてからベッドに潜って考える。
考えるんだ、母を救う方法を。その日の夜、近所のひとや病院の医師、警察に真実を伝えた日の夢を見た。
助けてください、全てはあの男がやったんです。
───その一言がきっかけで笠井が私の代わりに母をいたぶるようになったことを、私は後から思い出して歯を食い縛る。