夜を迎え撃て
返事がない。
玄関の磨り硝子越しに斜陽が廊下を染め上げて、それが私の長い影を作る。普段ならお母さんがいる時間だ。そして、笠井がまだ仕事に行っている時間のはず。人里離れた樹海に迷い込んだみたいに、静寂に息を潜めてリビングのドアノブに手をかける。
「おかえりミオちゃん」
丁度そこで笠井が通りすがる。普通だった。
マグカップに淹れた珈琲の香りがすん、と鼻を掠めたところでリビングに足を踏み入れる。笠井はソファに座った。
高そうな時計に細身のスーツ。長駆で無駄に端正な顔立ちの男にその装いは様になっていて引きで見ると絵画のようにも思える。立ち竦んでいると機嫌を損ねるから私は目を逸らして敢えて自然にマフラーを取る。
「…今日は、早いんですね」
「うん直帰だったからね。いやー骨が折れたよ」
「仕事ですか」
「うん同期がほんと使えなくて。足手まといもいいところ」
机上のPCを見ながら言う笠井に台所へ進む。胸騒ぎがする。考え過ぎか。いや違う。得体の知れない焦燥に駆られる私に反して笠井がマグカップに口付ける。目を凝らす。そこで息をのんだ。よく見れば笠井のネクタイが緩んでいて、ところどころ血飛沫が付いている。服の裾は血で真っ赤に染まっていた。
「あ、そうだミオちゃんそっち行ったついでにさ」
後ずさった瞬間ぐにゃ、と【何か】を踏んづける。
笠井が真っ直ぐ指をさす。
「片付けといてくれる、それ」
それは、母の手だった。
血溜めの中に母がいた。台所一面を夥しい量の血が飛び散っていて、呆然とする。お母さん、と呼ぶ。掠れて声にならなかった。もう一度お母さん、と呼んでから、視界が靄に霞んで埋もれていく。赤より青よりどす黒い蟠りが一気に視界を塗り潰す。ああ。あいつ。あいつ。…あいつ、
ぶち殺してやる。
台所から包丁を抜き取り一気に距離を詰めその胸倉を鷲掴む。押し倒して包丁の切っ先を笠井の額に突きつけたその時きら、と青い光が視界を走った。
ペンダントだった。瞠った目から涙が落ちる。手が震える。笠井がここぞとばかりに嬉しそうに破顔する。
「ほらな。俺とお前は、同じ穴の貉だろ」
即座に包丁を投げ捨てて離れて家を飛び出すその背後から、「ミオちゃん俺の仲間だねー」と間延びした声が追いかける。私はそれから耳を塞いで、現実から逃げ出した。
雪が、止まった街の時間の中をゆっくりと散歩している。
曇り空から落ちたそれは手の甲に置くと確かな結晶の形をしていて、熱を帯びると血に溶けた。
救急車を呼んだ。母はまだ、確かに息があった。
あの男は、殺しはしない。自分の行為が世間に露見するよりもっと玩具が壊れることの方に注力するから今回もまた、あの狡賢い頭で上手く言いくるめて母を陵辱し私を自分側に引き摺り下ろすんだろう。事実、何度も怪我をして病院に搬送される母を笠井は平然と精神疾患と宣った。精神疾患であるから、必死で助けを乞う母の言葉を世間は気が触れた物言いだと相手にしない。それを笠井は、わかってるんだ。