夜を迎え撃て
ちょっと何言ってるかわかんない、と頭に医学書を被せて肩をすくめる俺に、ミオがまたぷ、と噴き出す。
口元に手を置いてちょっと俯く仕草が癖なのか、よく見ると笑窪が見えた。立ち上がって話に耽っていたミオが、近づいてきて俺の隣にまたばすん、と座る。そして猫が微睡むみたいにごろんと寝転んだ。
「おい。人ん家(?)のベッドで寛ぐな」
「いいな、恭平は。バカで」
「喧嘩売ってんのか」
「褒め言葉だよ。バカってのは、誰しもなれるわけじゃない。ある種の才能なんだから」
「言われた側の心はもれなく傷ついてっけどな」
「ねえ、恭平はどうやってあたしのこと見つけたの」
寝転んで目を閉じたままのミオを隣から座って見下ろして、にわかにダラダラと冷や汗が浮かぶ。理由があまりにも不純だったからだ。それを正直に言ったら絶対帰られる。今俺足折れてる。逃げられたら追いつけない。≒ぼっち。それは嫌だ。なので。
「…………え、絵本の読み聞かせが聞こえたから?」
「読み聞かせ?」
嘘じゃない。じい様にキャッチされ、仲良くなったあとミオのことを聞いて。小児病棟に一目その姿を見ようと思ったのはさておき、姿より声が先に届いたのは本当だ。
あの透明感に満ちた耳通りの良い声。今でも思い出すだに懐かしさを感じる。母体の中にいる時のような。…母さんの声に似ているんだろうか。
「それ聞いて思い出した。恭平、あの子に絵本読んでくれたんだね」
「あの子?」
「背の小さくて、ショートヘアの女の子だよ。喋り方のたどたどしい。話しかけられなかった?」
喋り方のたどたどしい、まで聞いてようやっとミオの言う子が誰か結びついた。言うまでもなく、さっきまで俺が絵本を読んであげたあの女の子のことだろう。
「あー…、あの子か。うん。こっち来る途中で話しかけられてさ」
「あの子ね、目が見えないんだよ」
「えっ?」
一瞬我が耳を疑った。
そう言われてやっと、手探りで歩いてきた彼女の覚束ない足取りも、こっちを見ているようで妙に合わさらない焦点も、絵本を読んでいる間ずっと閉ざしていた目にも、納得がいった。だけど。
「…これ読んでって、あの子自分で絵本持ってきたんだぞ、本棚から引っこ抜いて」
「いつもそうだよ。あの子にはお気に入りの絵本があって、でも自分じゃ文字が読めないから、その世界を手探りで探して、あたしに読んでって持ってくる。ほら、人ってひとつ失えば、違う五感が失った感覚を補うって言うじゃない。絵本の手触りや匂いを、見えなくてもちゃんと覚えてるんだよ。
デタラメじゃない、決まってそれはあの子が、それからあたしが一番大切にしてる物語なんだ」
そんなことが、あり得るのか。でも実際、疑いたくなるような現実をたった今、俺はこの目で見て経験してきた。拙い、抑揚のない下手な読み聞かせだったろうに、彼女はそれを静かに聞いて、ありがとう、と笑った。
失った視界で、香りと、その感覚を確かめて。
「…嬉しかったと思うよ。すごく。読んでもらった、って、満面の笑みで教えてくれた。あの子があんな風に笑顔でいるの、あたしが絵本を読み聞かせた時以外で、初めて見たよ。ありがとうね」
「………いや」
「ま、あのお話を読むのはあたしだけの専売特許だから。恭平が読んだのは実はシリーズものの別の二冊だったってのも知ってるんだけどね」
「そうなのか!?」
「他にもシリーズがあるんだ。そうだ、お礼に恭平にも読み聞かせしてあげるよ。彼女とあたしにとって特別な物語。何度も読んで内容全部覚えてるし」
「いいわなんか腹立つから! 自分で読む!」
「“アナグマは賢くて、いつも皆に頼りにされています。”」
「話聞けや!!」
俺の制止にならない制止を振り切って、ミオはそのまま自分が覚えたという絵本の話を目を閉じたまま俺に読み聞かせ始めた。
年をとって死を前にしたアナグマのこと。そのアナグマを愛していた多くの動物たちのこと。死を迎えたアナグマに、悲しみに暮れる動物たち。消えない喪失に、それでもアナグマが残してくれたそれぞれの想い出を胸に前を向いていく。そんな、あたたかな春のひだまりに似た物語を。