夜を迎え撃て
「…やっぱり、中々筋がいい」
「あざーす」
「だが癖がある。学校で習っただけじゃないな」
ちら、とじいさまを見る。じいさまも俺の言葉を待っているようで、観念して軽く息を吐いた。
「…昔。まだ俺がガキの頃に、ある人に教わったことがある。ちょっと事情があって、妹と一緒に母さんの田舎に連れてかれたんだ。
都会と違って何もないし、虫は出るわトイレは暗いわって、妹がびーびーごねて大変でさ。しゃーなしまだ幼い妹は母さんが連れて帰って、俺だけそこに残ることになった」
俺がまだ子どもの頃の話だ。記憶はおぼろげで、もう曖昧にしか思い出せない。
そこでふと、心理学の講師から聞いた話が蘇った。
高二の夏ごろ、進路ガイダンスの一環で大学から心理、経済、物理の三分野における講師を高校に招き、自分の興味のある分野を選択する模擬授業があったのだ。
俺は理系だったけど、希望票を出し忘れていたせいで定員割れしていた心理学に割り当てられた。そこで聞いたのが、ヒトの記憶に最も根付く五感の話。中でも嗅覚だけが感情や記憶を司る大脳辺縁系に直結しているとかで、より鮮明で情緒的なものを湧き起こす事が出来るんだそうだ。終始退屈であくびを噛み殺していた授業の中でも、その話だけ興味を持ったから、よく覚えてる。
都会にいても、木々のさざめきや稲の香りを嗅ぐと当時を時折思い出すのも、きっと、そのせい。
「妹だけ東京帰れてずるいって拗ねて網振り回してたら声かけられてさ。虫取り教えてくれんのかと思ったらてんで違う。縁側で座れって言うから何やらかしたんだ俺ってビビってたら将棋盤出してきて。
将棋なんてやったことないのに、何考えてんのか表情の読めないじいさんで。…まずは見てろって言うんだ。俺はビビリながら、顔色窺って、正座。怒ってないんだろうに、顔が怖いから、まるで説教されてんのと変わんねーの。
そのうち、嫌でもルール覚えてきて。暑い外で遊ぶよりも、たまにはいいかって」
記憶が、浮かんでは消えていく。それぞれ別の場所に落下した点と点が、結びついて線になる。
「…そのひとと、将棋をして遊んでた」
灼熱の太陽。日射し。縁側。汗。将棋盤に駒を指す皺だらけの大きな手。汗ばみながら顔を上げるのに、光で顔は見えない。
「蒸し暑い、夏の日だった」
クマゼミの大合唱は、じいさまのぱち、と駒を指した音で息絶えた。
「王手」
「あ」
「まだまだだな、小僧」
くしゃくしゃ、と犬猫にされるように頭を撫でつけられて、ムッとして顔を上げる。でも目の前に、じいさまはいなかった。