その愛、買います
いつも、髪を切った翌日は緊張する。どきどきと落ち着かない心臓をなだめるようにゆっくり歩く。
通学路では誰も知り合いと会わなかったから、はじめてリアクションをもらったのは、下駄箱でひとりのクラスメイトと顔を合わせたときだった。
「瀬名?」
私を見て、ちょっと驚いたように声を上げたそのクラスメイトに、少しだけ脇の下に汗が滲む。それでもなんとか笑顔を作って、「おはよう、加納くん」と言った。けれど、挨拶は返ってこなかった。
「髪、切ったん?」
「うん、ちょっとイメチェンしてみようかな、なんて」
「ふうん」
一瞬誰かわかんなかった、と独り言みたいに呟く声からも、とくに何の表情も浮かばない横顔からも、加納くんの考えていることを読み取ることはできなかった。いつもそうだった。
私はこのクラスメイトが、少し苦手だった。そしておそらく加納くんも、私のことが苦手なのだろう。
何かあったわけではない。そもそも言葉を交わしたことも数えるほどしかない。だけどその数回のやり取りの節々に、彼のこちらへ向ける冷たさが滲むのをかすかに感じていた。私はそういったマイナスの感情には敏感だった。悲しいことに。
それでも愛想良く接するようには努めた。あちらも、私に対してあからさまな態度をとることはなかった。気に食わない人間がいるからといって排斥するほど、私たちはもう子どもじゃない。それに、加納くんははるくんの友達でもあった。
「晴也、好きそうだよな」
「え」
「そういう髪型」
ずばりと告げられて、かっと頬が熱くなる。なにもかも見透かされている気がして、そうするとなんだか私の行動がひどく浅はかに思えてしまう。
髪型に関するコメントは、それで終わった。似合うよ、だとか、かわいい、だとか、そんな言葉はもちろんなかった。
興味がないのだろう。加納くんはそれきりこちらを向くことはなかった。私に興味がある男子生徒なんてそれこそはるくんぐらいなものだろうから、この反応は至極当然のものなのだけれど、それでも加納くんからはどうしても冷たさが感じられて、やっぱり苦手だと思ってしまう。
だけど、そんな苦い気持ちも、教室に入ったらすぐに吹き飛ばされた。
「まひろ!」
私に気づいたはるくんが、びっくりした声を上げる。そうして勢いよくこちらへ駆け寄ってくると
「髪切ったの?!」
「う、うん、昨日」
「めっちゃかわいい! すげえ似合う!」
いつもと同じ、まっすぐに私を肯定してくれる言葉に、ほっと力が抜ける。
「ほんと?」
覆っていた髪がなくなって、どことなく頼りなさを感じていた首筋に触れながら聞き返せば、「うん!」とはるくんは相変わらず全力で頷いて
「超かわいいよ。まひろ、絶対そっちの髪型のほうが似合う!」
力を込めて告げるはるくんに、昨日からほんの少し胸の奥に巣くっていた後悔も、あっけなく消え去った。美容院から帰るなり母から向けられたのは、「あんなに伸ばしてたのに、もったいない」というような言葉ばかりだったし、鏡で自分の姿を見ていてもあまりに見慣れないその髪型は私にちっとも馴染んでいなくて、早くも長い髪が恋しくなっていたのだ。
だけど、やっぱりよかった、と思う。はるくんが喜んでくれた。そもそも、そのために髪を切ったのだから、それだけでいいのだ。
「よかった。ありがとう」
ようやく頬がゆるむ。うん、とはるくんもにっこり笑って
「あ、そうだ、まひろ」
ふと思い出したように呟くと、ちょっと来て、と私を連れて廊下に出た。
壁にもたれるようにして立って、ポケットから携帯電話を取り出す。そうして携帯を操作し、開いた画面を私に見せながら
「見つけたんだ、昨日」
そこに写っていたのは、見慣れた白と藍色のセーラー服だった。ネットオークションのサイトらしい。写真の下には、明稜高校女子制服、夏セーラー服、一万五千円の文字がある。
驚いてはるくんの顔を見ると、はるくんは悪戯っぽい笑顔で
「注文しちゃった」
まさかと思ったことをあっけらかんと口にした。
「え、本当に? あれ、本気だったの?」
「超本気。一週間後に届くらしいから、まひろ、着てね」
にっこり、はるくんは私が断れない笑顔を向ける。私はすっかり困惑して、「で、でも」と携帯の画面を見つめながら声を漏らすと
「着るって、どこで」
明稜高校の制服を着て外を歩くなんて、考えただけで恐ろしい。もしも知り合いに見られてしまったら。私は確実にイタイ人だと思われることだろう。明稜高校に行きたかったけれど叶わなかったから、制服だけでも買って、明稜高生のような気分で街を歩いて自分を慰めている、かわいそうな人。そんな目を向けられるに違いない。だって、私ならそう思う。
だけどはるくんは、私の不安なんて思い当たらないように軽く首を傾げて
「家で着ればいいじゃん」
当たり前のように、そう言った。
「家?」
「うん、俺の家」
そこではるくんはふっとこちらへ顔を寄せると、内緒話をするように声を落として
「来週の土曜日さ、親いないんだよね。だからその日に、まひろ、うちにおいでよ」
はるくんの声が妙に耳元で聞こえて、顔が熱くなる。私は意味もなく自分の頬に手をやりながら、「う、うん」と小さく頷いた。はるくんはにっこり笑うと、「決まりね」と私の頭を一度ぽんと撫でてから
「今日の放課後はどうしよっか」
と話題を変えた。どうしよっか、と私も同じ言葉を繰り返す。そうしてけっきょく、とりあえず近くのショッピングモールにでも行ってぶらぶらしよう、といつものように曖昧なことだけ決めて、ホームルームが始まった教室に戻った。
だけど今日は、その予定は叶わないみたいだった。
英語の授業が終わったあと、はるくんは先生に呼び出されていた。帰ってきたはるくんは大袈裟なほど暗い顔をしていて、「どうしたの」と尋ねてみれば
「放課後、英語の補習だって」
この世の終わりみたいな声で、言った。
なんでも、先日提出した課題の英作文の出来が、あまりにも悪かったらしい。補習対象は学年で十人ほどで、先生つきっきりのもと英作文の書き直しをさせられるとのことだ。はるくんが英語が苦手だというのは聞いていたけれど、まさか学年ワースト十位に入るほどだったとは知らなかった。
「今度、英語教えてあげよっか」
心配になってそう提案してみると、「ぜひ、お願いします」とはるくんはめずらしく真面目な顔で手を合わせてから
「ごめん、そういうわけで今日の放課後は遊べない」
「ううん、いいよ。補習、がんばってね」
言ってから、ふと思いついて、「あ、ていうか」と続ける。
「私、待っとこうかな。はるくんの補習が終わるの。どうせ暇だもん」
はるくんとの約束以外、私に放課後の予定なんてなかった。それなら、私も図書室で宿題でもしながら、はるくんを待っているほうがいい。そうしてはるくんの補習の愚痴でも聞きながら、いっしょに帰れたらいい。そう思って、「補習は何時まで?」と私ははるくんに尋ねたのだけれど
「何時だろ……たぶん、英作文を書き終わるまでだから、遅くなるかもしれないんだよね」
「書き終わるまで帰れないの?」
「先生はそう言ってた。だからまひろ、やっぱり今日は先に帰ってていいよ。遅くなると危ないし。まひろの家、遠いから」
大丈夫だよ、と私は食い下がろうとしたのだけれど
「俺が送れればいいんだけど、まひろ、家までは送らせてくれないしさ」
恨めしげに続けられた言葉にはなにも言えることがなくて、私はすぐにあきらめた。「わかった」と頷いて、だけど譲歩策を出してみる。
「じゃあ、六時までは待ってる。どうせ宿題はしたいもん。六時より遅くなるようだったら、連絡して。そのときは先に帰ることにするね」
「わかった、ありがとう」
はるくんはうれしそうに笑って、ふっとこちらに手を伸ばした。
顎の少し下あたりまでの長さになった私の髪に触れる。私がぎこちなく身体を強張らせていると、はるくんはそのまま何度か私の髪を撫でながら、「この髪」と目を細めた。
「ほんとかわいい。俺、この髪型、すげえ好き」
しみじみと噛みしめるように言われて、また顔が熱くなる。きっと赤くなっているであろう顔を隠すようにうつむいて、ありがとう、と小さく呟けば、うん、と満足げなはるくんの声が降ってきた。
通学路では誰も知り合いと会わなかったから、はじめてリアクションをもらったのは、下駄箱でひとりのクラスメイトと顔を合わせたときだった。
「瀬名?」
私を見て、ちょっと驚いたように声を上げたそのクラスメイトに、少しだけ脇の下に汗が滲む。それでもなんとか笑顔を作って、「おはよう、加納くん」と言った。けれど、挨拶は返ってこなかった。
「髪、切ったん?」
「うん、ちょっとイメチェンしてみようかな、なんて」
「ふうん」
一瞬誰かわかんなかった、と独り言みたいに呟く声からも、とくに何の表情も浮かばない横顔からも、加納くんの考えていることを読み取ることはできなかった。いつもそうだった。
私はこのクラスメイトが、少し苦手だった。そしておそらく加納くんも、私のことが苦手なのだろう。
何かあったわけではない。そもそも言葉を交わしたことも数えるほどしかない。だけどその数回のやり取りの節々に、彼のこちらへ向ける冷たさが滲むのをかすかに感じていた。私はそういったマイナスの感情には敏感だった。悲しいことに。
それでも愛想良く接するようには努めた。あちらも、私に対してあからさまな態度をとることはなかった。気に食わない人間がいるからといって排斥するほど、私たちはもう子どもじゃない。それに、加納くんははるくんの友達でもあった。
「晴也、好きそうだよな」
「え」
「そういう髪型」
ずばりと告げられて、かっと頬が熱くなる。なにもかも見透かされている気がして、そうするとなんだか私の行動がひどく浅はかに思えてしまう。
髪型に関するコメントは、それで終わった。似合うよ、だとか、かわいい、だとか、そんな言葉はもちろんなかった。
興味がないのだろう。加納くんはそれきりこちらを向くことはなかった。私に興味がある男子生徒なんてそれこそはるくんぐらいなものだろうから、この反応は至極当然のものなのだけれど、それでも加納くんからはどうしても冷たさが感じられて、やっぱり苦手だと思ってしまう。
だけど、そんな苦い気持ちも、教室に入ったらすぐに吹き飛ばされた。
「まひろ!」
私に気づいたはるくんが、びっくりした声を上げる。そうして勢いよくこちらへ駆け寄ってくると
「髪切ったの?!」
「う、うん、昨日」
「めっちゃかわいい! すげえ似合う!」
いつもと同じ、まっすぐに私を肯定してくれる言葉に、ほっと力が抜ける。
「ほんと?」
覆っていた髪がなくなって、どことなく頼りなさを感じていた首筋に触れながら聞き返せば、「うん!」とはるくんは相変わらず全力で頷いて
「超かわいいよ。まひろ、絶対そっちの髪型のほうが似合う!」
力を込めて告げるはるくんに、昨日からほんの少し胸の奥に巣くっていた後悔も、あっけなく消え去った。美容院から帰るなり母から向けられたのは、「あんなに伸ばしてたのに、もったいない」というような言葉ばかりだったし、鏡で自分の姿を見ていてもあまりに見慣れないその髪型は私にちっとも馴染んでいなくて、早くも長い髪が恋しくなっていたのだ。
だけど、やっぱりよかった、と思う。はるくんが喜んでくれた。そもそも、そのために髪を切ったのだから、それだけでいいのだ。
「よかった。ありがとう」
ようやく頬がゆるむ。うん、とはるくんもにっこり笑って
「あ、そうだ、まひろ」
ふと思い出したように呟くと、ちょっと来て、と私を連れて廊下に出た。
壁にもたれるようにして立って、ポケットから携帯電話を取り出す。そうして携帯を操作し、開いた画面を私に見せながら
「見つけたんだ、昨日」
そこに写っていたのは、見慣れた白と藍色のセーラー服だった。ネットオークションのサイトらしい。写真の下には、明稜高校女子制服、夏セーラー服、一万五千円の文字がある。
驚いてはるくんの顔を見ると、はるくんは悪戯っぽい笑顔で
「注文しちゃった」
まさかと思ったことをあっけらかんと口にした。
「え、本当に? あれ、本気だったの?」
「超本気。一週間後に届くらしいから、まひろ、着てね」
にっこり、はるくんは私が断れない笑顔を向ける。私はすっかり困惑して、「で、でも」と携帯の画面を見つめながら声を漏らすと
「着るって、どこで」
明稜高校の制服を着て外を歩くなんて、考えただけで恐ろしい。もしも知り合いに見られてしまったら。私は確実にイタイ人だと思われることだろう。明稜高校に行きたかったけれど叶わなかったから、制服だけでも買って、明稜高生のような気分で街を歩いて自分を慰めている、かわいそうな人。そんな目を向けられるに違いない。だって、私ならそう思う。
だけどはるくんは、私の不安なんて思い当たらないように軽く首を傾げて
「家で着ればいいじゃん」
当たり前のように、そう言った。
「家?」
「うん、俺の家」
そこではるくんはふっとこちらへ顔を寄せると、内緒話をするように声を落として
「来週の土曜日さ、親いないんだよね。だからその日に、まひろ、うちにおいでよ」
はるくんの声が妙に耳元で聞こえて、顔が熱くなる。私は意味もなく自分の頬に手をやりながら、「う、うん」と小さく頷いた。はるくんはにっこり笑うと、「決まりね」と私の頭を一度ぽんと撫でてから
「今日の放課後はどうしよっか」
と話題を変えた。どうしよっか、と私も同じ言葉を繰り返す。そうしてけっきょく、とりあえず近くのショッピングモールにでも行ってぶらぶらしよう、といつものように曖昧なことだけ決めて、ホームルームが始まった教室に戻った。
だけど今日は、その予定は叶わないみたいだった。
英語の授業が終わったあと、はるくんは先生に呼び出されていた。帰ってきたはるくんは大袈裟なほど暗い顔をしていて、「どうしたの」と尋ねてみれば
「放課後、英語の補習だって」
この世の終わりみたいな声で、言った。
なんでも、先日提出した課題の英作文の出来が、あまりにも悪かったらしい。補習対象は学年で十人ほどで、先生つきっきりのもと英作文の書き直しをさせられるとのことだ。はるくんが英語が苦手だというのは聞いていたけれど、まさか学年ワースト十位に入るほどだったとは知らなかった。
「今度、英語教えてあげよっか」
心配になってそう提案してみると、「ぜひ、お願いします」とはるくんはめずらしく真面目な顔で手を合わせてから
「ごめん、そういうわけで今日の放課後は遊べない」
「ううん、いいよ。補習、がんばってね」
言ってから、ふと思いついて、「あ、ていうか」と続ける。
「私、待っとこうかな。はるくんの補習が終わるの。どうせ暇だもん」
はるくんとの約束以外、私に放課後の予定なんてなかった。それなら、私も図書室で宿題でもしながら、はるくんを待っているほうがいい。そうしてはるくんの補習の愚痴でも聞きながら、いっしょに帰れたらいい。そう思って、「補習は何時まで?」と私ははるくんに尋ねたのだけれど
「何時だろ……たぶん、英作文を書き終わるまでだから、遅くなるかもしれないんだよね」
「書き終わるまで帰れないの?」
「先生はそう言ってた。だからまひろ、やっぱり今日は先に帰ってていいよ。遅くなると危ないし。まひろの家、遠いから」
大丈夫だよ、と私は食い下がろうとしたのだけれど
「俺が送れればいいんだけど、まひろ、家までは送らせてくれないしさ」
恨めしげに続けられた言葉にはなにも言えることがなくて、私はすぐにあきらめた。「わかった」と頷いて、だけど譲歩策を出してみる。
「じゃあ、六時までは待ってる。どうせ宿題はしたいもん。六時より遅くなるようだったら、連絡して。そのときは先に帰ることにするね」
「わかった、ありがとう」
はるくんはうれしそうに笑って、ふっとこちらに手を伸ばした。
顎の少し下あたりまでの長さになった私の髪に触れる。私がぎこちなく身体を強張らせていると、はるくんはそのまま何度か私の髪を撫でながら、「この髪」と目を細めた。
「ほんとかわいい。俺、この髪型、すげえ好き」
しみじみと噛みしめるように言われて、また顔が熱くなる。きっと赤くなっているであろう顔を隠すようにうつむいて、ありがとう、と小さく呟けば、うん、と満足げなはるくんの声が降ってきた。