If・・・~もしもあの時死んでいたら~

 それから数日が過ぎた。
 毎朝迎えに来てくれる彼の車に乗って、一緒に出勤。
 最初は会社から少し離れた所で降ろしてもらっていたけれど、わたし達が付き合っている事も社内に知れ渡って来たので、二日前からビルの地下にある駐車場まで一緒に乗って来ている。
 安田さんからは、その後何の攻撃も受けていない。
 廊下ですれ違って挨拶をしても丸無視だけど、睨まれなくなっただけマシだ。
 ところが、今日は社内の人達の視線が気になる。
 いつも優しく微笑んでくれる総務の部長も真顔だった。
 それから、他の人達も。
 廊下ですれ違う人は、わたしの横で湾曲して行くように思えた。
 まるでわたしを避けるように。

「ねえめぐみ、今日、何だかみんなの態度が変なのよ」
「後にしてもらえる?」
「えっ?」
「仕事、忙しいから」
「ごめん」

 めぐみ?
 彼女の顔にも緊張の色が見えた。
 一体どうしちゃったの?
 純平さん。
 今すぐ倉庫を抜け出して、あなたの顔が見たい。

「小田さん、ちょっとお遣い頼んでもいいかな?」
「はい。何でしょうか?」

 池田主任に呼ばれ、わたしは入荷が遅れて今日の発送に間に合わない商品の買出しを頼まれた。
 よくある事だ。
 とりあえず、近くのディスカウントショップやスーパーで揃えられる物だったらそれを買ってお客さんに送る。
 そして、メーカーから遅れて届いた商品は在庫したり返品したりする。

「はい、これ買って来る物のリストと車の鍵」
「それじゃ行って来ます」
「宜しく」

 お金を貰いに経理部に向かう。

「お疲れ様です」

 部屋に入ると、一瞬でその場の空気が変わったのがわかった。
 手前の席に座っていた今年入社の佐倉さんに至っては、半分泣き顔になっていた。

「あの、商品の購入に行きますので、一万円お願いしたいのですが」
「あ、はいはい。すぐ用意します」

 奥に座っていた先輩が、大慌てで手提げ金庫の中からお金を出して走って来た。
 そんなに急がなくてもいいのに。
 本当にみんなどうしちゃったんだろう。

「お待たせしました」

 両手で差し出されたお札を受け取る。
 若干震えて見えたのは気のせい?

「ありがとうございます。それじゃ、行って来ます」
「行ってらっしゃい」

 近くにいた人達全員から会釈をされた。
 何だかみんな、わたしの事を怖がっているみたい。
 だけど、怖がらせるような事をした覚えは無い。
 よくわからなかったけど、とりあえずわたしは目的の商品を買う為に出掛けた。

 買わないといけない物。
 ファミリーサイズのペットボトルのお茶一箱(六本入り)と、お徳用の飴十袋。
 それから、メーカーはどこのでもいいので、みかんの缶詰二十個。
 一人で持つにはちょっと辛い。
 社用車を借りて来たけど、駐車場から倉庫に戻る時には台車が必要かなぁ。
 積み忘れた事を後悔した。

「あれっ? 小田さん?」

 その声に振り向くと、メーカーの営業、坂野さんがいた。

「坂野さん」
「買い物?」
「ええ。入荷が間に合わない商品を買いに来たんです。それより、坂野さんこそ、こんな所でお買い物ですか?」
「このスーパーにも営業で回ってるんだ」
「そうだったんですか」
「これ、一人で持つの?」

 カートを覗き込みながら驚いた顔をしている坂野さん。

「はい。倉庫も人員不足で、買出しに二人も抜けられないので」
「それにしても、女の子にこんなに重い買出しさせて。そうだ。この後小田さんのとこにも寄る予定だったから、駐車場で待ち合わせよう。倉庫まで持って上がるの手伝ってあげるよ」
「ありがとうございます」

 坂野さんは、スーパーの駐車場で荷物を車に積むのも手伝ってくれた。
 凄く助かる。

「それじゃ、早く着いた方が駐車場で待つという事で、一旦解散」
「はい」

 車に乗り込むと、わたしは大通りに出た。
 会社から近いとはいえ、交通量の多い道路は、たまにしか運転しないわたしには緊張する時間だ。
 特に、右折に弱いわたしは、少し遠回りになるけど、左折と直進で行ける道を選んだ。
 案の定、坂野さんの方が先に到着していた。

「小田さん、どこの道通ったの? 前にも後ろにも姿が見えなかったんで心配したよ」
「すみません。運転するのが怖くて」
「家では乗らないの?」
「はい」
「それじゃ、あの店から右折して出るのは至難の技だね」

 はい。
 おっしゃる通りでございます。

「よし、それじゃ運ぼうか」
「すみません」
 
 倉庫から台車を持って来ようと思ったけど、坂野さんが大丈夫だというのでそのまま運ぶ事にした。 
 坂野さんは、両手に缶詰が十個ずつ入った袋を引っ掛け、更にお茶のダンボール箱を手で掴んで体の前に持った。

「あの、缶詰持ちましょうか?」
「大丈夫。それより、エレベーターのボタン押してくれる?」
「あ、はい」

 何だか申し訳ない。
 わたしが持っているのは、飴と坂野さんの営業かばん。
 二階に着くと、わたし達は長い廊下を歩き出した。
 エレベーターを降りて真っすぐ前へ進むと、まず左手に見えて来るのが経理部。
 それからその先に総務部が並んでいる。
 各部署とも、廊下側に大きな窓があるので、中から廊下を歩いている人の姿を見る事が出来た。
 総務部の前を通る時には、いつも純平さんの姿を探してしまう。
 これは、入社直後からの癖。
 目が合うと、今でもドキッとする。
 彼女になれたのに、まだどこか現実ではない気がする。

 居た。
 純平さんだ。
 あれっ?
 彼が立ち上がってこっちに向かって歩いて来る。
 そして、総務部のドアの前にさしかかろうとした時、彼が出て来た。

「椎名さん、こんにちは」
「坂野君、その荷物は?」
「スーパーで偶然彼女を見掛けまして、重そうだったので運ぶのを手伝っているんです」
「清美、それ全部頼まれたの?」
「うん」
「誰? 池田主任?」
「そう」
「まったく、こんなに重い買い物を女の子一人に頼むなんて」
「そうでしょう。僕も思ったんですよ。ここだけの話ですが、池田主任が行けばいいのに」
「ははっ、同感。坂野君ありがとう。後は俺が運ぶよ」
「いいですよ。倉庫に用事があって来たのでついでです」
「そう? それじゃ、お願いするよ。ありがとう」
「いえいえ。では」

 わたしも、彼の後を付いて行く。
 振り返ると、ドアの前で彼がまだ見送ってくれていた。

「こんにちは」
「あれっ、坂野君」

 池田主任が近づいて来た。

「スーパーで彼女に会ったものですから」
「いやー、すまん。助かったよ」
「どこに置きましょうか?」
「そこの台の上に」
「わかりました」

 坂野さんが下ろした荷物の横に、わたしも飴が入った袋を置く。

「坂野さん、ありがとうございました」

 わたしは、彼にかばんを渡すと、領収書と残りのお金を持って経理部へ行った。
 やっぱりみんなの態度がおかしい。
 奥の方に安田さんの姿も見えたけれど、パソコンに向かって軽快に指を動かしていて、わたしの事はまたしても無視だった。

「それじゃ、失礼します」
「お疲れ様でした」
 
 倉庫では、坂野さんが池田主任と話し込んでいた。
 彼は、営業向きだ。
 誰とも臆する事無く話が出来る。
 愛想もいい。

「小田さん、早速だけど、さっき買って来てもらった商品を振り分けて出荷準備してもらえる?」
「わかりました。指示書ありますか?」
「はい、これ」

 わたしはそれを受け取ると、ダンボールを組み立て、指示書に書かれている通りに箱詰めした。
 あとは、売り上げ伝票を発行して、荷札を作って箱に貼れば完成。
 一年以上同じ仕事をやってると、一連の作業はスムーズに出来るようになっていた。
 たまにややこしい問題にぶつかる事もあるけれど、そんな時は先輩に聞けばすぐに解決。
 経理など、計算を伴う仕事は苦手だけど、倉庫作業はわたしにも出来た。
 とは言っても、簡単な作業ばかりではない。
 きちんと考えて要領よくやらないと失敗する事もある。
 それでも出来る事が増えると、自然と自信もついてくる。
 わたしは、この仕事が好きだった。

 昼休みになった。
 わたしは、廊下に出るとすぐにめぐみに手を惹かれ、非常階段に連れ出された。

「ちょっとめぐみ、どうしたの? ご飯食べないの?」
「清美、あなたに凄い噂が立ってるの」
「噂?」

 その噂というのは、わたしがいつも長袖を着ているのは、腕から背中にかけて刺青、それも龍の絵が描かれていて、父親がヤクザの親分と言うものだった。

 ぷふっ。
 思わず噴出す。
 だから、みんなわたしを怖がってたんだ。
 わたしを怒らせたら、父親が黙っていないって?

「それから、椎名さんは、清美に付き合ってと言われ、怖くて断れなかったなんて噂もあるのよ。みんなバカじゃない? そんな事あるわけないのに」
「でも、どこから出たんだろ、そんな噂」
「きっと安田さんよ。あの人しか考えられない」
「でも良かった。ちょっと不安だったんだ。めぐみの態度も変だったから、わたしが何か気に障るような事をしたんじゃないかって心配だったの」
「わたしの態度? えっ、そんな態度取ってた?」

 めぐみは身に覚えが無いといった様子だった。

「ほら、わたしが話し掛けた時……」
「ああ、ごめん。あの時本当に忙しかったのよ。ほら、例のクレイマーA子から電話が掛かって来ててさ」

 倉庫名物、クレイマーA子。
 いつも細かい注文ばかりして来て、配達時間や支払い方法なんかも自分の都合ばかり押し付ける。
 それでいて、外袋にちょっと汚れが付いていたらそれはそれは豹変して文句の電話を掛けて来て、今すぐ交換の品を届けろと無理難題をふっかけて来る。
 その電話を取った日は、一日中憂鬱な気分になる。
 だから、他の事は後回しにしても、とにかくその人の注文はさっさと終わらせたい。
 と言う事で、めぐみはその事で頭が一杯だっただけだった。

「清美、一つ聞いてもいい?」
「何?」
「実はちょっと気になってたの。清美ってどうして半袖の服、着ないの?」
「えっ?」
「あっ、ごめん。話したくないならいいの。もし本当に刺青があってもわたしは全然気にしないよ。それに、清美のお父さんが普通のサラリーマンだって事はわかってる」
「……ごめん、今は話せない。でも、近いうちに絶対話すから」
「椎名さんは知ってるの?」
「うん。話した」
「それで、彼の態度も変わってないんだもん。わたしも何があろうと今まで通りだから」
「うん」
「よし、それじゃご飯食べよ」
「うん」

 非常階段から離れ、廊下を通って社員食堂へ向かった。
 途中で純平さんも合流し、わたし達はまた三人で食事をした。
 めぐみは、純平さんにも噂の話をした。
 そして、わたしと同じく噴出す彼。
 やっぱりおかしいよね。
 それでもやっぱりみんなの視線はちょっと気になる。
 ジロジロ見られると、昔を思い出しちゃうよ。
 いつまで経っても消えないトラウマ。
 きっとそれから開放される事はないんだろうと思う。
 ただ、それに負けない力は自分の気持ち次第で作れるものだと思ってる。
 逃げるばかりじゃなくて、時には立ち向かわなければいけない。
 負けそうになった時、支えてくれる人がいる。
 そんな大切な人に感謝しながら、わたしは生きていかなきゃと思う。

「清美、気にするなよな。逆に良かったのかもしれないよ。悪い虫も寄って来ないだろうし」
「椎名さん、まだ坂野さんの事言ってます?」
「いや、彼に関しての心配は消えた。だけど他にも男はいっぱいいるだろ?」
「そうですね。だったらやっぱりこのままにしておきましょう」
「めぐみ~~~」
「嘘よ。ちゃんとデタラメだって事、流しておくわよ」

 ヤクザの娘なんかヤダよ。
 安田さん、変な噂流すのやめて下さい。

 午後の仕事を始めてしばらく経ち、トイレに行こうと廊下に出た時だった。

「いい加減にしなさいよ」

 経理部の前の廊下で、安田さんと瀬高さんが何やら言い争っていた。
 二人は同じ年で、仲も良いはずだ。
 そんな二人が一体どうしたんだろう。
 トイレ行くの止めようか。
 でも戻ったりしたらかえって変だよね。
 わたしは、出来るだけ二人に気づかれないよう、気配を消して通り過ぎようとした。

「瀬高、あの子が来たわ」

 えっ?
 わ、わたし?
 二人はわたしの事で言い争っていたの?
 思わず足が止まる。
 心臓がドキドキして、息苦しくなった。
 純平さん、助けて。
 総務部の中を探したけど、あいにく彼の姿が無かった。
 こんな時に、どこに行っちゃったのよ。

「わたしは、安田さんが喜ぶと思って嘘を付いただけよ。椎名さんに戻って来て欲しいんでしょ?」
「そんな事頼んだ覚えはないわ。大体フェアじゃないのって嫌いなの。言いたい事があれば、ちゃんと本人に言うわよ。それなのに陰でコソコソ何やってるのよ」
「ひどい。友達だと思ってたのに」
「友達ならなおさらよ。ほら、あの子に謝りなさいよ。変な噂を流したのはわたしですって言いなさいよ」
「知らない!」

 瀬高さんはプイと横を向くと、階段の方に駆けて姿を消した。

「ったくもぉ……何よ……」

 って事は、あの噂-----わたしがヤクザの娘-----を流したのって瀬高さんだったの?
 安田さんは、その事を怒ってくれてるって事?

「清美どうした? 安田にまた何か言われたのか?」

 トイレに行っていたのか、純平さんが廊下の端から姿を現し、走って来てわたしをかばうように安田さんとの間に立ちはだかった。

「ち、ちがうの。安田さん、噂を流した瀬高さんを怒ってくれたの」
「別に、あなたの為に怒ったんじゃないわ。フェアじゃない事が許せなかっただけだから」
 
 それでも嬉しかった。
 怖くてたまらなかった安田さん。
 案外優しい人なのかもしれない。

「それじゃあの噂を流したのって、お前じゃなかったんだ」
「ひどいわ。純平もわたしの事を疑ってたの?」
「すまん」
「あら、やけに素直に謝るのね。それじゃ、わたし仕事があるから」

 そう言うと、安田さんは事務所に入って行った。

「驚いたよ。二人が向かい合ってたから」
「わたしも怖かった。でも、安田さんって案外良い人なのかも」
「待て、騙されるな。簡単に信じたらまた傷つくかもしれないぞ」
「そうね。気をつける」

 わたしって人を信じやすい性格なのかな?
 奈々美の時もそうだった。
 親友の奈々美がわたしを裏切るわけがないと信じていた。
 そして裏切られたと知った時のダメージは相当なものだった。
 実際に死のうとしたのだから。
 だけど、人を信用出来ないって悲しい事だと思う。
 傷つくのは嫌だけど、疑ってかかる自分も嫌い。
 だとしたら、信じて傷ついた方がマシなのかな。 
 これって、昔よりちょっと強くなったって事なのかな。
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