きみは林檎の匂いがする。
家のマンションを出て、お気に入りの傘を差した。
なにを着ていくか散々全身鏡の前で悩み、そんなにオシャレはしなくていいだろうとニットを手に取ったけれど、大人として余裕で見られたいという思いがあり、きれいめのワンピースにヒールを選んだ。
歩くたびに、カツカツと音が鳴る。
それが女性としての象徴のような、社会人としての証のような、今の会社に入った初々しい時はそんな風に感じていた時もあった。
自分が思い描いていた人生プランでは、とっくに結婚して、子供もいて、専業主婦をしながら料理教室に通っているような、そんな毎日を過ごしているはずだったけれど……。
人生はそんなに甘くない。
傘から滴り落ちる雨が、まるで自分みたいで虚しくなった。
「片山綾子さんですか?」
待ち合わせ場所でしばらく待っていると、声をかけられた。
こんなに振り向くことに勇気がいるのは初めてだ。
私は傘の持ち手を一回だけぎゅっとして、やっぱり心に芽生えたのは、余裕を見せたいということだけだった。
「はい。宇津見零士さんですよね。すみません。足元が悪い中お呼び立てしてしまって」
毎日会社で電話対応をしている私にとって、耳心地のいい声を出すことは容易い。
「……いえ。天気予報では雨じゃなかったんで、別にあなたが謝ることじゃないですよ」
静かで、淡々と喋る目の前の男。
いや、正確には男の子と表現したほうがいいかもしれない。