天満つる明けの明星を君に②
暁の部屋に向かっていた雛乃は、この時無防備な状態だった。

吉祥が滞在していることは忘れてはいなかったものの、今日はどこを掃除しようかと考えに耽っていたことが仇になった。


「雛乃」


「!わ…わ、若様…!」


水を張った盥と手拭いを手に縁側を小走りに歩いていた雛乃に嬉々として声をかけた吉祥は、硬直状態に陥った雛乃を見てにやりと笑った。

こうして蛇に睨まれた蛙のように身を竦ませる雛乃を見ると、どうしても愉悦に浸ってしまって口元が歪んでしまうのを自身も感じていた。


「こんな所にまで逃げ込んで、そんなに俺から逃げたかったのか?しかも主さまが借金を全額肩代わりしたそうじゃないか。お前にそれほどの価値があるのか?」


喉から言葉が出てこない雛乃にゆっくり歩み寄った吉祥だったが、その都度雛乃が離れようと後退る。

身体はぶるぶる震えて例え様のない恐怖に苛まれた雛乃の顔色は真っ青で、吉祥がさらに詰め寄ろうとした時――


「雛ちゃんに何してるの?」


冷えた声がした。

だがその声は高く幼く、振り返った吉祥は、腕をだらりと下げてぽつんと立っていた暁を見ると、それが誰だか悟った。

次の当主は女だと聞いている。

夜叉の仮面で顔を隠しているものの、その主が怒っているのは明白で、身体から揺らめく炎が見えた気がした。

そしてその娘の背後には、天満が立っていた。

腰にはふた振りの刀が提げられ、いつ斬りかかられてもおかしくはない殺気を天満も湛えていた。


「いえ、別に私は何も…」


「でも雛ちゃん嫌がってる。雛ちゃん、嫌なんでしょ?」


暁に問われた雛乃がこくんと頷くと、仮面で表情が分からないものの、暁が静かに吉祥ににじり寄り、天満が声をかけた。


「暁」


「雛ちゃんを苛める人は許さない」


天満の腰元で鍔鳴りが起きた。
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