星のキミ、花のぼく

左腕にした腕時計で時刻を確認してみれば、……17時45分。

今日は18時からバイトの予定だったのに、無理を言ってお休みにさせてもらった。

こんなことに時間を割いている場合じゃないし、1分1秒でも勿体ないし、安い時給とはいえ、1日休めばその分バイト代はしっかりと引かれるわけで……。

ああ、もう、茶封筒にでも入れて、コンシェルジュさんに渡すように頼んで帰ってしまおうか。

再度大きな溜息を吐き出したとき、ピロンっとスマホがメッセージの受信を知らせた。

【最後に千花(ちはな)と話せるかもって期待した。ごめん、ありがとう。】

………私だって、最後はちゃんと、会って話すつもりだった。

今まで意図的に彼とシフトが合わないようにしていたけれど……今日だけは、ちゃんと行こうと思っていたんだ。

だけど……弱い私は、彼と最後に会えなくて、よかったと安心する気持ちがある。

これで、よかったんだ……そう自分を納得させるように、心の中で数回、まるで呪文のように唱えてみる。

それだって……この心にぴりっと走る痛みが、消えることはないのだけれど、気休めくらいにはなるだろう。

もとからネガティブになっていた気分が、さらに暗くなったときだった。

マンションのエントランスに、1台のタクシーがすべり込んできた。

初めはぼんやりとその光景を瞳に映すだけだったが、後部座席に乗っている人物を確認すると、心臓が一気に跳ね上がった。

どうしよう……本当に、きた………!

まさか、こんなに簡単に会えるとは思っていなかったから、心の準備というものを全くもってしていなかった。

やっぱり……テレビや雑誌といった媒体越しに見るよりも、実物のアイドルは一段と美しい。

ああ、こんな人と顔を合わせるだなんて……昨夜はお酒が少し入っていたからいいものの、素面だなんて……さっさとこの婚姻届を返して帰ろう、緊張が尋常じゃない。

人間、あまりに美しいものを目にすると、こんなにも心が乱されるものなのだなと感心してしまう。

圧倒的なオーラを身に纏う悠星に、緊張しないわけがない。

彼の視界に入ることでさえ忍びなくて、やっぱり、コンシェルジュさんにお願いすればよかったと思った。

「あの、これ、返しに……」

勇気を出して声をかけた、なにより早くこの場から退散させてもらいたかったし。

「ねえ、ちょっと……」

けれども悠星は、まるで私の声など聞こえていないかのように、涼しい顔をして私の前を過ぎ去ろうとする。

出待ちのファンか何かとでも思って無視するわけ?

ちょっと、ちょっと……私はアンタにこの紙を返したら即刻帰りたいんだけど、ねえ、立ち止まってよ。

「ねえ、待ってよ!あの……婚姻届!…ねえってば!」

もう、これいらないなら私もいらないし、勝手にシュレッダーにかけて捨てちゃうけど?

「ねえ、だから!婚姻届!」

少し大きめな声でそう叫んだあと数秒、彼は勢いよく私のほうを振り返った。

なんだ……やっぱり、無視してたってわけ。

まあ、そんなこといいから、私はこの紙をさっさと返して帰……

「ちょっと、待て。こっち来て!」

帰りたいのに……意味がわからない。

紙、返したじゃん……用事はそれだけなのに……どうして私は、悠星の部屋に連行されているのだろうか。

知ってる……この世界に深く関わると余計なことにならないって。

だから私は、彼の住む世界には憧れるだけで、別世界で静かに生きていたいのに……お願いだから、帰らせてほしい。

あなたは芸能人、私は一般人……境界ははっきりとしていて、お互いが平和に暮らすためには…お互いがお互いの住む世界を、侵さないほうが身のためなのだから。

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