月がきれいですね
「お疲れ様でした」
今日も一日の仕事を終え、蒼子は夕暮れの街をひとり歩く。
朝、満員電車に揺られて通勤し、一日働いて。
そうしてまた、満員電車に揺られて帰る。
その道のり、およそ一時間。
「はあ。うんざりする」
思わず出てしまう溜息。
蒼子が務めているのは、自分の父親が経営する会社。
と言っても、零細、と呼ばれる規模のもので大した規模は無い。
どころか、もしかしたら赤字になるかもしれない今日この頃。
蒼子は、高校卒業と同時に、その会社に入社した。
いわゆる、コネというものだ。
蒼子の両親、特に母親は大学まで行って欲しかったようだが、勉強が嫌いだった蒼子は断固拒否した。
それから十年近く。
蒼子は、実家を出てひとり暮らしをしながら、日々満員電車と闘いつつその会社に勤め続けている。
「夕飯。何にしようかなあ」
これから乗る、見事に混雑した電車を思うと、とにかく憂欝になる。
なり過ぎる。
気づいた蒼子は、何か楽しいことを考えようと、思考を切り替えた。
料理をするのは蒼子の趣味と言ってもいい。
料理だけでなく、蒼子は家事全般が好きだ。
掃除も洗濯も、それをやっているととても気持ちが晴れる。
上手に節約して、たまにプチ贅沢をする。
そんな日常に、生きがいを感じている。
スーパーで買ってきた豆苗を、もう一度水栽培するなんて当たり前。
先だっては、余りにきれいなにんじんだったので、戯れににんじんの先を水につけておいたら、発芽するかの如く葉っぱが出た。
それがだんだんに育つと、まるで観葉植物のようで可愛くて。
食べることはしなかったけれど、しばらくキッチンの窓辺に飾っていた。
そんな風に、お金を無理にかけなくても、自分が潤うと思うことは幾らでも探せる。
蒼子はそう思っている。
そして、うっとり思う。

ああ。
ほんとに、家事、って素晴らしい。

だがしかし、働かずして家事している訳にはいかない。
それでも思う。
「ああ。家事だけ、やっていたい。私のこと、誰か養ってくれないかな」
自分では働かず、家事だけをやっていられる職業。
それが叶うのは、専業主婦だ。
だから、それに憧れるのだけれど蒼子は男性が苦手だ。
別に、同性愛というわけではない。
ただ単純に、男性が、ことにその裸が苦手なのだ。
プールや海に行くなんてとんでもない。
コンサートなどで、ラスト、服を脱いでしまわれると、どうしようもなく視線を彷徨わせてしまうくらい、今も男性が苦手だ。
それが原因で、今まで男性と付き合いらしい付き合いをしたことが無い。
「それでいきなり結婚とか。ハードルが高すぎるよね」
またも溜息を吐きそうになって、慌てて息を止める。
これ以上、幸福が逃げては困る、と。
蒼子は頬に力を入れて、駅へと歩き続けた。



「はい、もしもし?」
夜。
電話が鳴って、それに出た蒼子は相手が母親の千鶴だと知って、若干暗い気持ちになった。
別に、母親と仲が悪いわけではない。
だが、蒼子は母が苦手だった。
今は没落して、過去の栄華など微塵も残っていない自分の実家がそれはそれはとても自慢の彼女は、何かと嫁ぎ先である神崎家を馬鹿にしてきた。
しかし、蒼子にしてみれば、神崎家は自分の生家である。
だから、母の生家である高城家の自慢を聞き、神崎家の悪口を聞いて育った蒼子は、余り母の実家も印象が良くない。
『もしもし、蒼子?今日は、良いお話があるのよ』
いつも、どこかつんけんした感じの母の声が、弾んでいる。
こういう時は、何か彼女の実家関係でいいことがあったときだ。
経験上、そう知っている蒼子は余計な事を言って母の機嫌を損ねないよう、言葉を慎重に選ぶ。
「良い話って?」
『あなたにね、お見合いのお話があるの。高城の家の方からのお話よ』
高城。
そう聞いて、蒼子はやはりと溜息を吐きたくなった。
母自慢の高城家。
地元きっての旧家だそうだが、今はそれほどの財力があるわけで無い。
それでも、かつての名誉が母は自慢なのだが。
「お見合い?私が?」
蒼子は、更に大切な言葉を聞いたと、鸚鵡返しにそう聞いた。
見合い。
それは、誰かの紹介で男女が出会うもの。
そう蒼子は理解している。
それを、自分がするという感覚はまったくなかった蒼子は、思い切り気の抜けた声を出したしまった。
『そうですよ。高城の名を辱めないよう、きちんとしてきてね?』
「ちょっと待って!まだ、行くとは言ってないでしょ?」
『お断りするつもり?高城の名に泥を塗るつもりなの?』
母の声が尖る。
この声が、蒼子は苦手だ。
「そうじゃないけど。でも、相手のひとのこととか、何も聞いてないし」
それでも、正当性を懸命に解けば。
『まあ、そうね』
母も、柔軟な声を出してくれた。
「それで?どんなひとなの?」
そのことに安堵して、蒼子はスマホを握り直す。
『お相手は、25歳なんですって。あなたより、ふたつ年下ね』
そう言って、見合い相手について語りだした母の言葉に、蒼子はまず仰け反った。
年下。
別に、相手に大きな望みがある訳ではないけれど、頼りになるひとがいいと蒼子は思っていて。
年下、というだけで、その枠から外れていそうな気がしてしまう。
その他の履歴は、特に変わった点は無く。
都内の大学を卒業して、今は彼の父親が経営する会社勤務なのだと言う。
『神崎より、大きな会社なんですって』
まるで自分の自慢のように母が言うのを聞きながら。

最初から、ふたりで会えるのは気が楽だけど。
待ち合わせの目印が、薔薇の花、ってどうなんだろう?

蒼子は、そのことに気を取られていた。



「目印は、薔薇の花」
そして見合い当日。
その待ち合わせの場所へ向かいながら、改めて、この人混みのなか、そのような物を持って自分を待っていなくてはならないお見合い相手に、蒼子は同情を禁じ得ない。
「私が持っていなくちゃいけないんじゃなくて、本当に良かった」
それでも、持って立っていなくてはならないのが、自分でなくて良かったと思ってしまうのは、ひとの性か。
「薔薇の花」
駅前の人混みを遠くに見られる場所まで来て、蒼子はその相手を探す。
と。
「あ、いた」
探すまでもなく、赤い薔薇を一輪、さり気なく持って立つひとりの青年に気が付いた。
25歳と聞いているが、ラフな格好のせいか、それより若く見える。
すらりと高いそのひとは、とても見栄えがした。
それでも、見合い相手に会うというよりも、後輩に会うかのような気持ちで蒼子はスカートを軽く整えて、その青年の前に立つ。
「あの、斉木さん、でいらっしゃいますか?」
こんな昼日中から薔薇の花を持って立っている人間が、そんなに居てたまるかと思いつつも、蒼子が丁寧に尋ねれば。
「はい、そうです。神崎さん、ですか?」
涼やかな声で返事があった。
上背もかなり高い。
そして、その顔は、周りの女の子達がざわめく暗いに整っている。
「はい。神崎です。今日は、よろしくお願いします」
斉木の優しそうな瞳を安心した思いで見上げながら、蒼子が言えば。
「こちらこそ、よろしくお願いします。あ、これ、よろしかったらどうぞ」
持っていた薔薇を蒼子へと差し出しながら、斉木が優しい笑みを浮かべた。
「さて、神崎さん。これから、どうしましょうか」
蒼子と並んで立ち、斉木が首を傾げるようにして尋ねる。
「私は、なんでも。斉木さん、何かやりたいこととか、ありますか?」
「僕も特には無いですけど。でも、ただ食事して、お話しするだけではつまらない、ですよね?」
見合いなのだから、それでもいいのかも知れないが、確かにそれだけでこれから長く付き合って行けるかどうかの判断をするのは難しい。
蒼子が思うのと同じようなことを斉木も考えたらしい。
「ですよね。じゃあ、映画でも行きましょうか」
「そうしましょう」
そうして、ふたり並んで映画館目指して歩き出す。
「映画。今、何をやっていたでしょう?」
蒼子が考えるように言えば。
「すみません。僕も、詳しくなくて」
斉木が、本当にすまなさそうに言う。
「私も、詳しくないんで大丈夫です。あの、それよりも」
隣を歩く斉木。
その目を見上げるようにして、蒼子は感じていることを口にした。
「言葉づかい、そんな気にしなくて大丈夫ですよ?丁寧語じゃなくて、いいです。僕、ってなんか無理してませんか?」
気になって、ずばりと聞けば斉木が苦笑する。
「無理、はしていませんが。余所行きではあります」
「普通でいいですよ、普通で。むしろそうしてください」
「じゃあ、神崎さんもそうしてくれる?」
茶目っ気たっぷりに、そう斉木に言われ蒼子は何だか楽しい気分になった。
「うん。普通にするから、普通にして?」
「わかった」
言い合って、何となくふたりで笑い合って、蒼子は自分の肩の力が抜けていくのを感じる。
楽しい、と感じている。
男性と出掛けて、こんなにもリラックス出来たのは初めてかもしれない。
思いながら、蒼子は斉木の不思議な魅力を好ましく思っていた。
「神崎さん。何を観たい?」
映画館前に到着し、蒼子と斉木はふたり並んで上映のラインナップを見つめる。
邦画、洋画、アニメ・・。
そのラインナップを眺めながら、蒼子は一枚のポスターから目が離せなくなる。
それは、日本で作成されたアニメ映画で、評判もいい。
機会があるなら、観てみたいと思う。
けれど、アニメだ。
斉木は嫌だろうかと、ちらりと隣を見た蒼子は、同じような瞳で同じポスターを見つめている斉木の横顔を見つめることになった。
横から眺める斉木の顔は、鼻筋が通っていて、とても綺麗で、目が離せなくなる。
「きれいな顔」
思わず、声に出してから、はっとして蒼子は口を手で押さえたけれど、もう遅い。
「神崎さんも、可愛いよ」
ポスターから、蒼子へと視線を移した神崎が、相変わらずの涼し気な声と優しい瞳でそう言って来た。
けれど、哀しいかな。
これまでの人生経験から、そんな事実はどこにも無いと信じている蒼子はその言葉を言下に否定した。
「お世辞は要らない」
必要以上、言葉がきつくなったかもしれない。
そんな心配から、斉木を見上げれば。
「でも、俺は神崎さんを本当に可愛いと思う。だから。俺の意見、簡単に否定するなよ」
斉木は、気分を害した風も無く、そう言って蒼子の頭をぽんぽんと撫でた。
「あ、ごめん!いやだった?」
頭を撫でられる。
その余りに経験のない行動に、蒼子が目を見開けば、斉木が焦ったように謝って来る。
その必死さに滲みでる、斉木の誠実さ。
「ううん。いやじゃない。ただ、慣れてないからびっくりしただけ」
何故か、耳が熱くなるのを感じながら、蒼子は慌てて首を横に振った。
「そっか、よかった」
にっこりと斉木が笑う。
何故か、つられてしまう、その温かな笑み。
「ねえ、私、これ観たい」
だから、なのか。
蒼子は、するりと素直にそう口にしていた。
「うん。俺も、これがいいと思ってた」
互いの目を見て笑い合って。
蒼子と斉木は、並んで映画館へと入って行った。
「ね、神崎さんってポップコーン食べたいひと?」
映画館のロビーで斉木に問われ、蒼子は首を横に振る。
「私は、飲み物も要らないひと。斉木さんは?」
「俺も、どっちも要らないタイプ。なんだ、一緒だね」
そんな小さな事で気が合うのが、何だか嬉しくなって蒼子は自然と笑みが浮かぶ。
「私、映画は集中して観たいタイプなの。だから、ポップコーンを買っても食べないんだな、これが」
座席番号を探しながら蒼子が館内を進めば、斉木も同じようにチケットを見ながら歩みを進める。
「俺も。飲み物大量に飲み残しちゃって、どうしよう、ってなるタイプ。お、ここだ。神崎さん、どっちの席がいい?」
買った席は、通路側から一番目の席とその隣。
斉木は、自分はどちらでもいいと蒼子に希望を聞いてくれる。
「じゃあ、私。通路側でもいい?」
「うん、いいよ」
平日の昼間だというのに、映画館はまあまあの混み具合で。
蒼子は、周りの雑談を聞くともなく聞いていて。
「ね、俺。神崎さんのこと、あおこちゃん、って呼んでもいいかな?」
隣に座った斉木が、そう言うのを驚いて聞いた。
「あおこちゃん?」
鸚鵡返しに言えば、斉木が、うん、と頷く。
「今日初めて会って、時間もそんなに経ってないけど、そう呼びたいな、って思うんだけど。いや?」
駄目かな?
と、斉木が首を傾げる。
その様子は、何だか可愛くて、思わず頷きそうになる蒼子だけれど。
「えーと、確認なんだけど。それは、愛称として呼びたい、ってこと?それとも、私の名前を、あおこだと思ってる?もしかして」
本当に、もしかして、と思いつつ蒼子が聞けば。
「え?あおこちゃん、じゃないの?」
斉木が驚いたように目を見開いた。
「違います。そうこ、です」
その瞳が余りに可笑しくて、蒼子が笑いながら言えば、斉木ががばっと頭を下げる。
「ごめん!俺、名前間違えてた!」
「これ、一応お見合いだけど。お家の方から、聞いてないの?」
尚もくすくす笑いながら言えば、斉木の目が泳いだ。
「あー。ごめん。俺、結婚に興味無くて。だから、そのあんまり詳しく聞いてない。名前とか、印刷してあるものは渡されたけど」
「ってことは、今日も、乗り気じゃなかったんだ?でも、ならなんで来たの?」
まだ25歳なのだ。
それに加えて、この容姿。
そりゃ、見合いなんかしなくても、相手に困らないだろうと蒼子が言えば。
「結婚しないと、会社を継がせないって親父が言い出して」
心底困ったように斉木が言った。
「それは、大変だね。だって、もうお父さんの会社で働いてるんでしょ?」
聞いた通りのことを蒼子が言えば。
「うん。親父の会社で“修行”してるよ」
今度は、斉木が冗談のように笑いながら言う。
「だったら、そのまま働いて、誰か好きなひとと結婚すればいいんじゃない?今、恋人、いないの?」
「いたら、流石に今日来ないよ」
言下に否定する斉木に、それはそうかと蒼子は頷いた。
「ごめん。無神経だった」
「ううん。蒼子ちゃんって素直なんだね。でもそうだよ。俺に恋人が居るのに今日来たら、蒼子ちゃんにだって失礼でしょ?」
柔らかな、けれど凛とした瞳で斉木が言う。
「私にも?」
「うん。俺、そんなに不実じゃないつもりだよ」
斉木の大きな瞳が、包み込むように蒼子を見つめる。
「斉木さん」
「あ、良かったら、俺のことも名前で呼んで、って。ああ、もう映画始まるね」
そう言って、斉木が蒼子の方からスクリーンへと身体の向きを変える。
「うん。楽しみだね」
蒼子もまた、スクリーンへと向き直りながら。
蒼子ちゃん。
出会ったばかりの斉木が、当たり前のように自分の名を呼んでいること。
そして、それを当たり前のように受け入れている自分がいることに、蒼子は不思議な気持ちを味わった。



「蒼子ちゃん。大丈夫?」
「そっちこそ、大丈夫じゃなさそう」
映画を観終わったふたりの目は、見事に真っ赤だった。
想像よりずっと映画にのめり込んで、ハンカチが濡れるほど泣いてしまった蒼子は、映画館の中の照明が戻るころ、とても恥ずかしかったのだけれど。
自分の周りは全員、泣いているようだったし、なにより。
隣の斉木も、泣いていたようなので、心から安堵した。
そして感じた、一体感。
「映画。凄く良かったね」
「うん。凄く良かった。あ、蒼子ちゃん、ちょっと待って。俺、パンフレット買って来る」
「あ、私も買う!てか、ちょっと待って!チケット代、出して貰っちゃったから、パンフレットは私が買うよ」
慌てて斉木を追ったのに。
「パンフレット、二冊お願いします」
斉木は、当然のように蒼子の分も買ってしまった。
「あー、私が買うって言ったのに!」
「いいじゃん。ちょっと格好つけさせてよ」
にこにこ笑って、斉木は蒼子にパンフレットを手渡す。
「ありがと」
ほんのり笑って、受け取って。
蒼子は、斉木の男らしく大きな手に目を止めた。
少しごつごつとして、さらりとしていそうなその手を、そのまま思わず取りそうになって、蒼子は慌てて自分を止めた。

わ、私、今何しようとした!?

今、うっかり手を繋ぎそうになったと。
蒼子は斉木に気づかれないよう深呼吸をして。
「お茶でも飲む?」
そう提案した。
「うん。そうしようか」
幸い、斉木は何も気づいた様子は無く、蒼子の言葉に頷いてくれる。
「お昼過ぎたところだけど。どうする?何か食べる?」
言いながら、街を歩く。
そうしながらも、蒼子がひととぶつかりそうになれば、斉木がさり気なく庇ってくれる。
その温かさを心地よく感じながら、蒼子は周辺の店を思い浮かべる。
「そうだね。何か食べようか。蒼子ちゃんは何がいい?」
「うーん。あんまり思い付かなくて。斉木さんは?何か食べたいものない?」
蒼子が問うているのに、斉木は答えない。
「斉木さん?」
その不自然な沈黙に、蒼子が斉木を見上げれば。
「蒼子ちゃん。俺が、映画始まる前に言ったこと、聞こえてた?」
少し傷ついた風の斉木がそう逆に問うてきた。
「映画始まる前、って。ああ、あの斉木さんのことも下の名前で呼んで、ってやつ?」
するりと言った蒼子は、斉木の目がきらきらと輝くのを見て、しまったと思うがもう遅い。
これはもう、下の名前で呼ぶようになるまで粘られるコースだろう、と冷や汗が流れる。
「蒼子ちゃん」
わざとらしく、斉木が呼ぶ。
その、期待に満ち満ちた瞳。
「・・・・・」
それでも、蒼子が答えられずにいれば。
「もしかして、俺の名前知らない、とか?」
斉木が、楽しそうに尋ねてくる。
「知ってる、けど」
「なら、言ってみてよ。呼んでみて?」
わくわくと、斉木が楽しそうに蒼子にねだる。
「うー。み、貢くん」
下の名前を呼ぶだけなのに、何でこんなに恥ずかしいのかと思うほど恥ずかしい。
そんな思いで、漸く蒼子はその名を呼んだ。
「貢でいいよ」
すると斉木が、それはもう嬉しそうに笑いながら、そう言った。
「呼び捨てには出来ないよ」
そういう呼び方は、ちょっと、と蒼子が言えば、斉木もそれ以上は何も言わず。
「じゃあ、貢くん、でいいよ」
それは譲らない、とにっこり笑った。




その後、ふたりで遅めのランチを摂りながら映画の感想を話しあった。
感動した場面など、着眼点に多少の違いはあったけれど、そういう観方もあるのか、と互いに話すのも楽しくて。
蒼子は、思いがけなく楽しい時間を過ごした。
「何か。今日は、もっと緊張だけするかと思ってたけど。凄く楽しかった。貢くん、ありがとう」
何となく、離れ難さを感じながら、公園のベンチにふたり並んで座って噴水を見る。
「こっちこそ。凄く楽しかった。でも、だから言わなくちゃいけないことが、あって」
斉木が、何か言い出しづらそうに両手を膝の上で組んで言う。
「なに?」
言いながら、蒼子は今日が見合いなのだと改めて思い出していた。
だとすれば、斉木が言い辛いこと、というのは、つまり。

お断り、されるってこと、かな?

それは、寂しいと思いつつ蒼子が尋ねれば。
「俺、蒼子ちゃんと友達になりたい、って思う。今日、凄く楽しかったし。また、会いたいな、って。でも、これってお見合いでしょ?俺、結婚は」
そこで、斉木が言い淀む。
「そっか。結婚に興味ない、って言ってたもんね」
断っても大丈夫だよ、の思いを込めて蒼子は言った。
けれど。
「違うんだ、蒼子ちゃん」
斉木は、真剣な瞳になって、蒼子を見つめる。
「違う、ってなにが?」
「結婚に興味が無い、っていうか。その」
「うん?」
そこでひと呼吸置いて。
「蒼子ちゃん。俺、俺ね。ゲイ、なんだ」
斉木は、思い切った様子でそう言い切った。
そしてそのまま、蒼子を真剣な瞳で見つめて来る。
「ゲイ、って。あの、世界人類全部が恋敵になっちゃうタイプのひと、てこと?」
蒼子が首をかしげつつ聞けば。
「それは、バイ、かな。俺の場合は、その。女性を愛せない、って感じで」
言いづらそうにしながらも、斉木はきちんと答えてくれた。
「おお、なるほど。つまり、私は女だから、貢くんの本命になれない、ってことだ」
判った、と蒼子がぽんと手を叩く。
「まあ、そうなるかな」
そんなあっけらかんとした様子の蒼子にほっとしたように、斉木が小さく息を吐いた。
「あ、でもそれなら。会社、継げ無くなっちゃわない?」
そんな条件があった筈だと、蒼子は心配になって斉木を見る。
「うん。なるね。まあ、会社を継げないだけならいいんだけど。俺のこと、継がないならクビにするつもりみたいで。俺、今の仕事が好きだから、それは嫌だな、って」
「そっか。仕事、好きなんだね」
だからこそ、それを失わないために、今日の見合いにも来たのだろうと、蒼子は大きく頷いた。
そして、閃く。
「ねえ、それなら私と結婚しない?」
これは妙案だと、前のめりになって言った蒼子に、斉木は怪訝な顔を向ける。
「え?俺の話、聞いてた?蒼子ちゃん、俺は」
「女のひとが愛せない、んでしょう?聞いてたから大丈夫」
それは、問題無い、と蒼子は大きく頷く。
「それなら、なんで」
「私、専業主婦になるのが夢なの。で、男の人、苦手なの」
蒼子の言葉に、斉木の目が微かに光る。
「それ、って」
「ああ、私の場合は別に女性が好き、ってわけじゃないんだけど。男性は苦手なの」
「うん」
蒼子の話を、真剣に聞き続ける斉木。
その姿に、蒼子は益々好感を抱く。
そして。
「だから、貢くん!私を一生養って!そうしたら、私、契約妻になるから!」
斉木の手を取らないばかり、勢いこんで言った蒼子に。
「え?ええええええ!!!???」
斉木は、仰け反るようにして驚いた。



「ね、蒼子ちゃん。俺と友達になるだけならともかく。結婚は、ちゃんと考えた方がいいよ」
場所を居酒屋の個室に移し、蒼子は斉木と今後のこと、について話し合う。
「でも、考えてたら、貢くんは好きな仕事ができなくなっちゃうでしょう?」
自分が提案した、契約結婚、に非常に乗り気な蒼子は、やる気でビールのジョッキを持つ。
「そうだけど。でもね、蒼子ちゃん。蒼子ちゃんには、これから真剣に愛する男性が出て来るかもしれない。そうして、そのひとの子供を生みたい、って思うかもしれない。ごめんだけど、俺、それは許してあげられないよ?」
近い将来有りうること、として斉木はそう言うけれど。
「もちろん、貢くんと結婚しているのに、他の男のひとの子供を妊娠するような真似はしないよ?貢くんに、今、凄く真剣に好きなひとが居るから嫌、っていうならともかく。将来、あるかも、知れない話でこの案を棄却されるのは嫌だなあ」
「俺には、真剣に付き合ってるひととか居ないし、この先、出来るとも思えないけど。でもね、蒼子ちゃんは違うんだから」
「違わないよ。本気で誰かを好きになるかどうか、の話なんだから」
でしょ?と言いながら、蒼子はジョッキを口に運ぶ。
「そうだけど、でも」
「貢くんが、誰かと外で会いたい、とか、そういうときはちゃんと言って。それと、本気で誰かを好きになったから、もう私と居られないって思ったときも。もし、私に他に誰か好きなひとが出来たりしたら、そのときには言うから。そうしたら、そのとき、どうするか、ふたりで相談しよう?」
もしかしたら、の、未来の話なのだ。
それでいいだろう、と蒼子は斉木の瞳を見つめる。
「蒼子ちゃん。それで本当に後悔しない?」
「しない。貢くんが養ってくれるなら、私、家事はちゃんとやるから。ってか、思い切り家事やらせて。私、家事だけをしてる人生が憧れなの」
大好きな家事を、毎日好きなだけ出来る。
それも、自分のためだけじゃない。
誰かのためにする家事。
それが、この目の前にいる斉木のためなら、どれだけの喜びになるだろう。
蒼子は、それが今から楽しみでならない。
「蒼子ちゃん。俺は、今の仕事を続けたい。そして、君となら一緒に生活していけそうだと感じてもいる。だから」
斉木は、背筋を正して蒼子を見る。
それに応えるように、蒼子も背筋を正した。
「神崎蒼子さん。俺と、結婚してください」
斉木が、真剣な声で発したその言葉に。
「はい。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
蒼子もまた、真摯な表情で答えた。
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