眩しい
新宿にある、とある喫茶店。
今をときめく山口百恵のプレイバック Part2が流れる店内。
彼女は、目の前の同じ年頃の女性と親しげに話をしている。
私は彼女の後ろ姿を映して、一歩ずつ足を伸ばす――
「淳子ちゃんは、どこの大学に通っていたの?」
「私はT大です。早苗さんは?」
「Mっていう美大よ」
「芸術関係なんですね。素敵です」
「そう? ありがとう」
車の中で交わされる他愛もないやり取り。真っ赤なスポーツタイプの高級車を薄暮の合間を縫って走らせる本城早苗は、私より一つ上の24歳だった。
「早苗さんのペンションって、まだ遠いんですか?」
「もう少し先よ。でも、パパの持ち物だから、私のじゃないわ。因みにこれもね」
そういって、彼女は指先でハンドルを叩き微笑む。
〈警察は、殺人事件として捜査を開始する模様で――〉
私達は今、緑豊かな樹々の中を走り抜けて山道へと差し掛かっていた。
自然と体に力が入ったのを自覚するのと同時にノイズが酷くなる。
早苗さんは、不快な表情を露わにラジオのスイッチを切った。
彼女は、私が勤めるS社という都下の小さな工場で部品の組み立てをしている。
私が新卒で入社したのに対して、数か月ほど早いパート採用だった。
お互い地味で目立たないタイプで、隠れるように人付合いも良い方ではなかったけれど、ある日を境に親しくなった。
「お父さんと険悪なままだったの、やっぱり気の毒だわ」
「……仕方ないです」
同期の子に半ば強引に誘われて、数人で会社にあるベンチで昼食を取っていた時に親の話が出た。そこで私は、今までの家庭環境を少しだけ打ち明けていた。
「でも、やっぱり暴力振るうのは、ちょっとね……」
「はい……」
母が六年前に亡くなり、父は変わってしまった。酒に溺れて仕事も辞めて、家の中で一日中を過ごすようになり、いつしか私に手を上げるようになった。痣が増えていく私は殺されると感じたことがあったし、実際、なりかけたことがある。浴室に引き釣り込まれてバスタブの中に沈められた時には、終わったと思った……。
「急な一人暮らしは、大変だったでしょう?」
「親が共働きだったので、小さい頃から出来ることは自分でやっていたので、そうでもありません」
私は家を飛び出して生活の為に必死でバイトしていた。時には言えないようなことをして学費も稼いでいた。そうして知ったのは、父の死だった。
「じゃあ、身内って呼べる人は、いないのね?」
「はい」
こんな話で昼休憩が終わった時に私を呼び止めたのが、早苗さんだった。存在感薄く、会話に入るでもなくいた彼女。
――落としてませんか?
檸檬色のハンカチは私のじゃなかったけれど、そこから仲良くなっていった。
「家の中に死体があるなんて、怖いですね」
話題を変えようと、先ほど流れていたニュースの内容を持ち出してみる。
「そうね」
「どういう神経してるんでしょう」
「意外と生きるのに必死なだけで、普通かもよ」
「普通、ですか……。ブッチャーみたいな顔かな」
早苗さんは、誰? と苦笑する。私は悪役プロレスラーであることを伝えた。
先程のニュースでは、港区青山の豪邸で家族と思われる惨殺死体がビニール袋に入れられてクローゼットから見つかったそうだ。話しによると、腐敗が進んでいて死後一年ぐらいは経過しているらしい。
「淳子ちゃん。コーヒー飲む?」
「ありがとうございます。頂きます」
「後の席にあるから、取ってくれる?」
「はい」
どうして早苗さんが手顔を汚して働くのかが分からなかった。直に聞いたこともあるけれど、はぐらかされるばかりで理由を知ることがない。あまり自分の話しをしたがらない人だから、気付けば私の話になっている。本当は私だって話たくはないのだけれど、それでも伝えていた。彼女といると、不思議と心地いいのが理由だったと思う。それに、二人でいる時の早苗さんが、何故か他の誰かに見えて、興味をそそられたことがあるのかもしれない。
(業務用?)
魔法瓶の入った手提げの下には、透明な袋があった。
折り畳んであるとはいえ、大きさと厚みを感じる。
「早苗さん、どうぞ」
「私は大丈夫。淳子ちゃん、遠慮しないで飲んでね」
「はい」
そうして、湯気が立ち上るコーヒーを私は少しずつ含んでいった――
くねるように上って行く。辺りはすっかり暗くなってしまい、車のライトだけが頼りだった。会話も底を突き始めた頃で、私は強烈な眠気を飛ばしたくてラジオのスイッチを入れ直した。すると、先ほどよりもクリアに受信することができた。
〈――被害者のうちの一人は、その家に住む本城早苗さんであると判明しました〉
(……本城?)
〈――また、本城さん宅の赤色の高級車が、何者かによって持ち出されたようです〉
「早苗さん。今、本城っていいませんでした……?」
「私、ブッチャーみたいかしら?」
どうやら、思考が止まり掛けているようだ。こちらを向く彼女の表情すら、ぼやけて見える。睡魔が酷く会話になっている気がしない。
「……すいません。少しだけ寝ていいですか?」
「ええ。着いたら起こしてあげる」
「すいません……」
そうして、深い眠りに落ちた――
(……?)
ザッという音がした。それは、繰り返し聞こえてくる。何かが顔に掛かったようにも思えたが、感触がなかった。
「早苗……さん?」
少し、反響した。生ぬるい息も返ってきた。
「ごめんなさい。起こすの忘れてたわ」
首を捻りながら見上げてみると、後ろからの光に照らされた歪な彼女の姿があった。どうやらシャベルを使い私へ土を落としているようだった。
(どういうこと……)
周りが暗い為に、存在感が異様に増して見える。
光の正体は、ヘッドライトだろうか。
「少し狭いけれど我慢してね。暫くすれば、慣れると思うから」
「何してるんですか!?」
私の体は九の字になっていて、狭さから足を伸ばすこともままならない。手足はきつく縛られていて、動かす度にロープが肌にめり込む。焦点を近くしてみると、袋に入れられているのが分かって直感的に後部座席のものだと知った。
「何って、私、貴女になるのよ」
そう言って、彼女は地面に刃先を突き立てた。
(なに言ってるの……)
表情が分からない不気味さに鳥肌が立つ。彼女は、呼吸が速く浅くなっている私に「最後だから」と語り出した。
「私の育った環境は、貴女より酷かったと思うわ。本当の父親である男は、私を幼い頃から犯した。堕ろしたことさえある。そのことを知る母親は、私のことを守るどころか折檻してね……。まさに生き地獄だったわ。それに、借金まみれで結局あの二人は夜逃げしたの」
彼女は、大きく肩を落とした。
「束の間だったけれど、解放されたって思ったわ。でも、本当に束の間だった。気が付いたら、見知らぬ男に連れられて風俗で働かされていた。何も分からなくって、されるがままだった。私は全てを呪ったわ。そうして、ふっと思ったの。私だから駄目なんじゃないかって。他の誰かとしてなら、きっと上手くいくんじゃないかって。そう思えたのは、少し仲良くなって話すようになった子が言っていたことよ。〈客の相手をしている時の【私】は、別の誰かなの〉って。それを聞いた私は、他人の人生を乗っ取ることが幸せへの近道だって気付いたの。だから年の近い女性を選んで、その人に成り切ることに決めたの」
そして、今回は不満だったと言う。
「派手な子だったわ。あれは、本当のあの子じゃなかった。だから私が、本当のあの子になってあげていたの。それに、両親が健在だったのもいい迷惑。すっかり騙されて、恥ずかしい思いをしてしまったわ」
シャベルの足掛けを踏みつける。
(……この人、誰?)
「今の貴女も本当の貴女じゃない。だから私が、本当の貴女になってあげる。さよならの向こう側でだけど、楽しみにしていてね」
そうしてシャベルを抜き取ると、再び土を落としはじめてきた。
「勤める場所、今度は都内がいいわね」
(絶体絶命……)
徐々に埋もれていく。
息苦しさが増す。
だけど、下手に抵抗しない方がいい。そのことを私は父から学んでいた。
(深さは、それほどでもない)
あの女《ひと》が作業を終わらせて立ち去るのを待とう。ここからの逆襲は、考えるべきじゃない。
(それでも、あの時みたい――)
不意に父を思い出した。あの時のことが、今でも私の心を搦《から》め捕るようにしてある。蒼白な顔が、今でも焼き付いてしまっている。
しゃがみ込んでいた父。
同じ最期ならと、逆襲した私。
(大丈夫……)
ズボンのポケットに折り畳み式があるかを肘で確かめた。
いつしか肌身離さず持ち歩くようになり、あの日、父に使ったナイフ。
(大丈夫……)
なるべく静かに、酸素を大事に、埋まって見えなくなるのを待とう――
「ありがとうございました」
「何かあったら、警察に連絡するんだよ」
「はい」
自分の姿が覆われたことを確認すると、私は直ぐさま懸命にナイフを取り出して袋に穴を空けて多少は息苦しさから解放されていた。そして、慎重に手のロープを切り解いていた。
そうして耳をそばだてて、エンジン音が遠ざかるのを根気強く待った。心臓の音が邪魔だったけれど、聞こえなくなるまで待った。それから、ゆっくりと百数えて急いで行動に移した。
袋を大きく切り裂き夢中で土を弄った。どのくらいの時間そうしていたかは分からないけれど、冷たく湿った土を削るようにして搔いていた。不意に突き崩すように軽くなったので、そこから闇雲に地面を掴まえて体を引き摺り上げた。足のロープも切り解いた。そうして、タイヤ痕を頼りに暗い山中を車道へと出て道なりに歩いて行った。
暫くすると、後方から車の気配がして硬直した。私からは妙な汗が噴き出していたけれど、気にする余裕なんてなかった。
その車は、一度通り過ぎたけれどハザードを出しながらバックで戻って来たので後手にナイフを握り締めて私は身構えていた。
けれど、その必要は無かった。
ガラス越しに見えたのが、見知らぬ老夫婦で心配をしてくれる人達だったから。
私は、交通機関のある場所まで送ってくれるよう頼んだのだったが、時間も遅いからと自宅に泊まることを強く勧められて、結局断り切れずに泊まらせてもらうことになった。
「お気遣い、ありがとうございます」
数日の間、甲斐甲斐しく世話を焼いてもらってしまっていた。年の近いお孫さんを亡くされたそうで、私が幽霊だったとしても放っておけなかったという。さりげなく事情を聞かれてもいたので、彼氏と喧嘩をして、置いて行かれたことにしていた。
理由は、事実を打ち明けることで、行動しづらくなるのが嫌だったからだ。
異常な手段ででも、幸せを掴み取ろうとする彼女に執着する気持ちがあった。復讐心もあるが、上回ってしまっている。
私は日の当たらない場所に身を潜めて、他人を羨むぐらいのことしか出来ない。でも、彼女は違うようだ。もしかしたら、何も知らないあの頃から、そういった部分に惹かれて心地よく感じていたのかもしれない。だから思った。
もう一度、会いたい――と。
次は、本当に殺されるかもしれない。
けれど会いたかった。
狂っている人間に関わるほど、危険なことはない。
それでも会いたかった。
問題は、どうやって探し出すかだ。誰にも知られたくない。興信所に頼むとかいうこともしたくない。探し出す方法。何か、ないだろうか……。
『都内がいいわね――』
老夫婦に送ってもらう途中に見えたもので閃いた。あちらこちらで目にしていたはずなのに、気付けなかった。可能性は未知数。それでも、出来ることなのだからと見限るように迷いを捨てた。
(夢先案内人、かな……)
私は、アパートへ戻った。手持はナイフ以外は老夫婦から頂いた茶封筒だけだったので、隣地の大家さんを尋ねてみると、忘れものかと問われた。確認してみると、友人を名乗る女性が代わりに解約したい旨を告げてきたと話す。誰であるかは察しが付いた。そして、あの女《ひと》が誰であろうとも構わないとも思った。
生返事をした私は、ドアを開けてもらった。
(なんにも無い)
伽藍洞になった部屋を見て、嗤ってしまった。
「……よかった」
押入れの天井裏に隠しておいた、お札の束。
父が遺した僅かばかりの遺産。
私は、そのお金を持ってアパートを後にした――
それからの私は、まるで禁じられた遊びをしているかのようだった。単調な作業を毎日のようにして行い胸をときめかせていた。
「――あ、もしもし。失礼ですが、そちらに森淳子さんは、いらっしゃいますでしょうか?」
平日の午前九時から午後五時まで。私は、電話を掛けることに没頭していた。厚いタウンページを公衆電話で開いては、一社ずつ確かめていっていた。場所を変えながら、しらみ潰しに掛けていっていた。
「――はい。さんずいで……はい。20代です……いるんですね!? いま、公衆電話からなんですけど、待っている人が多いので掛け直します!」
電話を切った。一人たりとも並んでいない後ろへ、私は興奮しながら去り際に小さく小さく頭を下げた。
探し始めてから、二か月近くが経とうとしていた。字が違っていたり、年齢が違っていたりと、辿り着くのは困難に思えたが、どうにかここまできた。後は、間違いなく本人であることを祈るばかりだった。
翌日。つばの広い帽子を被り、メガネを掛けた私は、彼女が勤めているであろう会社が見える喫茶店で見張っている。
店の人は、モーニングの時間帯から居続ける私に不審な目を向けてくるが、追加注文をすることで余計な言動をされないように気を付けている。
渋谷区本町にある、専門商社。彼女は受付として働いているらしい。
この地域は、建設予定の空き地も点在していて、姿を見せないモグラがトンネルを掘った跡が見られる。
私は、人間の方は必ず見つけ出してやろうと、目を凝らしていた。そうして、その姿を捉えたのは、夕焼けがオフィスの窓に反射する頃だった。
(あれが、私ってこと?)
ネイビーのハンドバックを片手に颯爽と歩くその姿。本城早苗だった頃の面影というか雰囲気が微塵もない。私は興奮を忘れて、自信に満ち溢れた姿に唖然となってしまった。
(私、じゃない……)
あれは、あの女の勝手な解釈の【私】。
「違う……」
正気を取り戻すように、慌てて後を付けた――
一定の距離を保つ視界には、男の視線が吸い寄せられている。様々な感情が渦巻いてくる。けれど、今はこの距離でいいと自分を戒めた。そうして歩くことニ十分たらずで高級感の漂うエントランスを潜り抜けた【私】。見上げるほどの建物《マンション》。
その場で小一時間ほど睨め付けていると、ニュートラファッションに身を包んだ【私】が若作りの男性と腕を絡めて現れて、敷地内の駐車場にあった一台に乗り込み重く響くエンジン音と共に去って行った。
「――ありえない!」
ボロアパートへ戻った私は、腸が煮えくり返っていた。本城早苗だった頃のあの女は、もっと悲壮感があった。だから、【私】として生きる以上は、本城早苗《それ》以下で生きるものだと思い込んでいた。けれど、男性はともかく、それ以上を【私】で手に入れていた。
あれが、私?
あれが私の人生の向こう側?
「そんなはずない!」
私は、執着の中に期待をしていた。
代わって背負ってくれているのではないかという期待。
反芻したくもないのに、警察の説明が蘇ってくる。
また、私を搦め捕る。
だって、
台所の包丁で、何度も自分のことを父は刺したのだから――。
致命傷と思える刺し傷と包丁の刺し傷との一致について、警察は歯切れの悪い物言いをしていた。それは、つまり私の犯行を隠す為に他ならない。
父の蒼白な顔が、思い止まった結果だと私は確信してしまった。そうじゃなかったら、あの剣幕で沈めたのだから、二度と生き返らないと思えるまで手を放さなかったはずだ。
(背負いきれない……)
どれだけの苦痛を父は息絶えるまで自身に下したのだろう。
あの瞬間に戻りたい。殺されてしまう結果でも構わない。
そうすれば、こんな苦しみを味わうことはなかった。
罪悪感に日々を蝕まれることもなかった。
私は、自首しようと何度も警察へ足を運んでいた。そうして、回れ右を繰り返していた。
『犯罪者になりたいの?』
『本当にそれでいいの?』
『何も悪くない』
『黙っていればいい』
甘い心の囁きに私は屈してしまう。
そうして鏡を見る度に出てくる言葉は、「ブッチャー……」
たまたまテレビを点けた時に知ったレスラー。
彼は凶器を持っていた。
相手は血を流していた。
でも、可愛いと思った。
だって、殺す気はないのだろうから。
私は、呟くようになっていた。
踏み止まれなかった自分を卑下して後悔して、慰めるように呟いていた。
それなのに――
怒りが込み上げてくる。あの女は、背負うどころか【私】で生き生きとしている。事情を知らなくても、今の私よりは日陰の存在であるべきはずだ。それなのに、あんなにも輝いている。
「許せない……」
そして、それと同時に、あの女に対する強い憧憬が、加速度的に増していっていた――
それからの十日間、私はあの女を観察し続けた。すると、【次】を探していることに気が付いた。
今、その相手《獲物》と喫茶店にいる。
私は唇を噛み締めた。理由はどうあれ、【私】を捨て去ろうとしていることに耐えられなかった。もっと素敵な【私】を見せて欲しかった。もっともっと【私】を綺麗にして欲しい想いが、縋《すが》るようにしてあった。
絶対に、捨てさせない――
絶頂に達したとき、私は歩き出していた。
相手の女が気が付いて視線を寄越したけれど、そんなものには目もくれず【私】の肩を鷲掴みにしようと手を伸ばす。テーブルにある檸檬色のハンカチを見つけて同じ手口かもしれないと嫉妬に狂う。怒鳴り付けてやろうと私は息を吸い込んだ。
Bメロのサビが来る。
一拍の間が入った。
(馬鹿にしないでよ!)
――この人は、どんな顔をするだろう。
私を見て、驚くのだろうか。
逮捕が過るのだろうか。
それとも……、喜ぶだろうか。
指先が、肩に触れた。
【私】が、振り返ろうとする。
フレーズは去っていたけれど、不思議と私は心地よさを感じている。
〈眩しい~了~〉
今をときめく山口百恵のプレイバック Part2が流れる店内。
彼女は、目の前の同じ年頃の女性と親しげに話をしている。
私は彼女の後ろ姿を映して、一歩ずつ足を伸ばす――
「淳子ちゃんは、どこの大学に通っていたの?」
「私はT大です。早苗さんは?」
「Mっていう美大よ」
「芸術関係なんですね。素敵です」
「そう? ありがとう」
車の中で交わされる他愛もないやり取り。真っ赤なスポーツタイプの高級車を薄暮の合間を縫って走らせる本城早苗は、私より一つ上の24歳だった。
「早苗さんのペンションって、まだ遠いんですか?」
「もう少し先よ。でも、パパの持ち物だから、私のじゃないわ。因みにこれもね」
そういって、彼女は指先でハンドルを叩き微笑む。
〈警察は、殺人事件として捜査を開始する模様で――〉
私達は今、緑豊かな樹々の中を走り抜けて山道へと差し掛かっていた。
自然と体に力が入ったのを自覚するのと同時にノイズが酷くなる。
早苗さんは、不快な表情を露わにラジオのスイッチを切った。
彼女は、私が勤めるS社という都下の小さな工場で部品の組み立てをしている。
私が新卒で入社したのに対して、数か月ほど早いパート採用だった。
お互い地味で目立たないタイプで、隠れるように人付合いも良い方ではなかったけれど、ある日を境に親しくなった。
「お父さんと険悪なままだったの、やっぱり気の毒だわ」
「……仕方ないです」
同期の子に半ば強引に誘われて、数人で会社にあるベンチで昼食を取っていた時に親の話が出た。そこで私は、今までの家庭環境を少しだけ打ち明けていた。
「でも、やっぱり暴力振るうのは、ちょっとね……」
「はい……」
母が六年前に亡くなり、父は変わってしまった。酒に溺れて仕事も辞めて、家の中で一日中を過ごすようになり、いつしか私に手を上げるようになった。痣が増えていく私は殺されると感じたことがあったし、実際、なりかけたことがある。浴室に引き釣り込まれてバスタブの中に沈められた時には、終わったと思った……。
「急な一人暮らしは、大変だったでしょう?」
「親が共働きだったので、小さい頃から出来ることは自分でやっていたので、そうでもありません」
私は家を飛び出して生活の為に必死でバイトしていた。時には言えないようなことをして学費も稼いでいた。そうして知ったのは、父の死だった。
「じゃあ、身内って呼べる人は、いないのね?」
「はい」
こんな話で昼休憩が終わった時に私を呼び止めたのが、早苗さんだった。存在感薄く、会話に入るでもなくいた彼女。
――落としてませんか?
檸檬色のハンカチは私のじゃなかったけれど、そこから仲良くなっていった。
「家の中に死体があるなんて、怖いですね」
話題を変えようと、先ほど流れていたニュースの内容を持ち出してみる。
「そうね」
「どういう神経してるんでしょう」
「意外と生きるのに必死なだけで、普通かもよ」
「普通、ですか……。ブッチャーみたいな顔かな」
早苗さんは、誰? と苦笑する。私は悪役プロレスラーであることを伝えた。
先程のニュースでは、港区青山の豪邸で家族と思われる惨殺死体がビニール袋に入れられてクローゼットから見つかったそうだ。話しによると、腐敗が進んでいて死後一年ぐらいは経過しているらしい。
「淳子ちゃん。コーヒー飲む?」
「ありがとうございます。頂きます」
「後の席にあるから、取ってくれる?」
「はい」
どうして早苗さんが手顔を汚して働くのかが分からなかった。直に聞いたこともあるけれど、はぐらかされるばかりで理由を知ることがない。あまり自分の話しをしたがらない人だから、気付けば私の話になっている。本当は私だって話たくはないのだけれど、それでも伝えていた。彼女といると、不思議と心地いいのが理由だったと思う。それに、二人でいる時の早苗さんが、何故か他の誰かに見えて、興味をそそられたことがあるのかもしれない。
(業務用?)
魔法瓶の入った手提げの下には、透明な袋があった。
折り畳んであるとはいえ、大きさと厚みを感じる。
「早苗さん、どうぞ」
「私は大丈夫。淳子ちゃん、遠慮しないで飲んでね」
「はい」
そうして、湯気が立ち上るコーヒーを私は少しずつ含んでいった――
くねるように上って行く。辺りはすっかり暗くなってしまい、車のライトだけが頼りだった。会話も底を突き始めた頃で、私は強烈な眠気を飛ばしたくてラジオのスイッチを入れ直した。すると、先ほどよりもクリアに受信することができた。
〈――被害者のうちの一人は、その家に住む本城早苗さんであると判明しました〉
(……本城?)
〈――また、本城さん宅の赤色の高級車が、何者かによって持ち出されたようです〉
「早苗さん。今、本城っていいませんでした……?」
「私、ブッチャーみたいかしら?」
どうやら、思考が止まり掛けているようだ。こちらを向く彼女の表情すら、ぼやけて見える。睡魔が酷く会話になっている気がしない。
「……すいません。少しだけ寝ていいですか?」
「ええ。着いたら起こしてあげる」
「すいません……」
そうして、深い眠りに落ちた――
(……?)
ザッという音がした。それは、繰り返し聞こえてくる。何かが顔に掛かったようにも思えたが、感触がなかった。
「早苗……さん?」
少し、反響した。生ぬるい息も返ってきた。
「ごめんなさい。起こすの忘れてたわ」
首を捻りながら見上げてみると、後ろからの光に照らされた歪な彼女の姿があった。どうやらシャベルを使い私へ土を落としているようだった。
(どういうこと……)
周りが暗い為に、存在感が異様に増して見える。
光の正体は、ヘッドライトだろうか。
「少し狭いけれど我慢してね。暫くすれば、慣れると思うから」
「何してるんですか!?」
私の体は九の字になっていて、狭さから足を伸ばすこともままならない。手足はきつく縛られていて、動かす度にロープが肌にめり込む。焦点を近くしてみると、袋に入れられているのが分かって直感的に後部座席のものだと知った。
「何って、私、貴女になるのよ」
そう言って、彼女は地面に刃先を突き立てた。
(なに言ってるの……)
表情が分からない不気味さに鳥肌が立つ。彼女は、呼吸が速く浅くなっている私に「最後だから」と語り出した。
「私の育った環境は、貴女より酷かったと思うわ。本当の父親である男は、私を幼い頃から犯した。堕ろしたことさえある。そのことを知る母親は、私のことを守るどころか折檻してね……。まさに生き地獄だったわ。それに、借金まみれで結局あの二人は夜逃げしたの」
彼女は、大きく肩を落とした。
「束の間だったけれど、解放されたって思ったわ。でも、本当に束の間だった。気が付いたら、見知らぬ男に連れられて風俗で働かされていた。何も分からなくって、されるがままだった。私は全てを呪ったわ。そうして、ふっと思ったの。私だから駄目なんじゃないかって。他の誰かとしてなら、きっと上手くいくんじゃないかって。そう思えたのは、少し仲良くなって話すようになった子が言っていたことよ。〈客の相手をしている時の【私】は、別の誰かなの〉って。それを聞いた私は、他人の人生を乗っ取ることが幸せへの近道だって気付いたの。だから年の近い女性を選んで、その人に成り切ることに決めたの」
そして、今回は不満だったと言う。
「派手な子だったわ。あれは、本当のあの子じゃなかった。だから私が、本当のあの子になってあげていたの。それに、両親が健在だったのもいい迷惑。すっかり騙されて、恥ずかしい思いをしてしまったわ」
シャベルの足掛けを踏みつける。
(……この人、誰?)
「今の貴女も本当の貴女じゃない。だから私が、本当の貴女になってあげる。さよならの向こう側でだけど、楽しみにしていてね」
そうしてシャベルを抜き取ると、再び土を落としはじめてきた。
「勤める場所、今度は都内がいいわね」
(絶体絶命……)
徐々に埋もれていく。
息苦しさが増す。
だけど、下手に抵抗しない方がいい。そのことを私は父から学んでいた。
(深さは、それほどでもない)
あの女《ひと》が作業を終わらせて立ち去るのを待とう。ここからの逆襲は、考えるべきじゃない。
(それでも、あの時みたい――)
不意に父を思い出した。あの時のことが、今でも私の心を搦《から》め捕るようにしてある。蒼白な顔が、今でも焼き付いてしまっている。
しゃがみ込んでいた父。
同じ最期ならと、逆襲した私。
(大丈夫……)
ズボンのポケットに折り畳み式があるかを肘で確かめた。
いつしか肌身離さず持ち歩くようになり、あの日、父に使ったナイフ。
(大丈夫……)
なるべく静かに、酸素を大事に、埋まって見えなくなるのを待とう――
「ありがとうございました」
「何かあったら、警察に連絡するんだよ」
「はい」
自分の姿が覆われたことを確認すると、私は直ぐさま懸命にナイフを取り出して袋に穴を空けて多少は息苦しさから解放されていた。そして、慎重に手のロープを切り解いていた。
そうして耳をそばだてて、エンジン音が遠ざかるのを根気強く待った。心臓の音が邪魔だったけれど、聞こえなくなるまで待った。それから、ゆっくりと百数えて急いで行動に移した。
袋を大きく切り裂き夢中で土を弄った。どのくらいの時間そうしていたかは分からないけれど、冷たく湿った土を削るようにして搔いていた。不意に突き崩すように軽くなったので、そこから闇雲に地面を掴まえて体を引き摺り上げた。足のロープも切り解いた。そうして、タイヤ痕を頼りに暗い山中を車道へと出て道なりに歩いて行った。
暫くすると、後方から車の気配がして硬直した。私からは妙な汗が噴き出していたけれど、気にする余裕なんてなかった。
その車は、一度通り過ぎたけれどハザードを出しながらバックで戻って来たので後手にナイフを握り締めて私は身構えていた。
けれど、その必要は無かった。
ガラス越しに見えたのが、見知らぬ老夫婦で心配をしてくれる人達だったから。
私は、交通機関のある場所まで送ってくれるよう頼んだのだったが、時間も遅いからと自宅に泊まることを強く勧められて、結局断り切れずに泊まらせてもらうことになった。
「お気遣い、ありがとうございます」
数日の間、甲斐甲斐しく世話を焼いてもらってしまっていた。年の近いお孫さんを亡くされたそうで、私が幽霊だったとしても放っておけなかったという。さりげなく事情を聞かれてもいたので、彼氏と喧嘩をして、置いて行かれたことにしていた。
理由は、事実を打ち明けることで、行動しづらくなるのが嫌だったからだ。
異常な手段ででも、幸せを掴み取ろうとする彼女に執着する気持ちがあった。復讐心もあるが、上回ってしまっている。
私は日の当たらない場所に身を潜めて、他人を羨むぐらいのことしか出来ない。でも、彼女は違うようだ。もしかしたら、何も知らないあの頃から、そういった部分に惹かれて心地よく感じていたのかもしれない。だから思った。
もう一度、会いたい――と。
次は、本当に殺されるかもしれない。
けれど会いたかった。
狂っている人間に関わるほど、危険なことはない。
それでも会いたかった。
問題は、どうやって探し出すかだ。誰にも知られたくない。興信所に頼むとかいうこともしたくない。探し出す方法。何か、ないだろうか……。
『都内がいいわね――』
老夫婦に送ってもらう途中に見えたもので閃いた。あちらこちらで目にしていたはずなのに、気付けなかった。可能性は未知数。それでも、出来ることなのだからと見限るように迷いを捨てた。
(夢先案内人、かな……)
私は、アパートへ戻った。手持はナイフ以外は老夫婦から頂いた茶封筒だけだったので、隣地の大家さんを尋ねてみると、忘れものかと問われた。確認してみると、友人を名乗る女性が代わりに解約したい旨を告げてきたと話す。誰であるかは察しが付いた。そして、あの女《ひと》が誰であろうとも構わないとも思った。
生返事をした私は、ドアを開けてもらった。
(なんにも無い)
伽藍洞になった部屋を見て、嗤ってしまった。
「……よかった」
押入れの天井裏に隠しておいた、お札の束。
父が遺した僅かばかりの遺産。
私は、そのお金を持ってアパートを後にした――
それからの私は、まるで禁じられた遊びをしているかのようだった。単調な作業を毎日のようにして行い胸をときめかせていた。
「――あ、もしもし。失礼ですが、そちらに森淳子さんは、いらっしゃいますでしょうか?」
平日の午前九時から午後五時まで。私は、電話を掛けることに没頭していた。厚いタウンページを公衆電話で開いては、一社ずつ確かめていっていた。場所を変えながら、しらみ潰しに掛けていっていた。
「――はい。さんずいで……はい。20代です……いるんですね!? いま、公衆電話からなんですけど、待っている人が多いので掛け直します!」
電話を切った。一人たりとも並んでいない後ろへ、私は興奮しながら去り際に小さく小さく頭を下げた。
探し始めてから、二か月近くが経とうとしていた。字が違っていたり、年齢が違っていたりと、辿り着くのは困難に思えたが、どうにかここまできた。後は、間違いなく本人であることを祈るばかりだった。
翌日。つばの広い帽子を被り、メガネを掛けた私は、彼女が勤めているであろう会社が見える喫茶店で見張っている。
店の人は、モーニングの時間帯から居続ける私に不審な目を向けてくるが、追加注文をすることで余計な言動をされないように気を付けている。
渋谷区本町にある、専門商社。彼女は受付として働いているらしい。
この地域は、建設予定の空き地も点在していて、姿を見せないモグラがトンネルを掘った跡が見られる。
私は、人間の方は必ず見つけ出してやろうと、目を凝らしていた。そうして、その姿を捉えたのは、夕焼けがオフィスの窓に反射する頃だった。
(あれが、私ってこと?)
ネイビーのハンドバックを片手に颯爽と歩くその姿。本城早苗だった頃の面影というか雰囲気が微塵もない。私は興奮を忘れて、自信に満ち溢れた姿に唖然となってしまった。
(私、じゃない……)
あれは、あの女の勝手な解釈の【私】。
「違う……」
正気を取り戻すように、慌てて後を付けた――
一定の距離を保つ視界には、男の視線が吸い寄せられている。様々な感情が渦巻いてくる。けれど、今はこの距離でいいと自分を戒めた。そうして歩くことニ十分たらずで高級感の漂うエントランスを潜り抜けた【私】。見上げるほどの建物《マンション》。
その場で小一時間ほど睨め付けていると、ニュートラファッションに身を包んだ【私】が若作りの男性と腕を絡めて現れて、敷地内の駐車場にあった一台に乗り込み重く響くエンジン音と共に去って行った。
「――ありえない!」
ボロアパートへ戻った私は、腸が煮えくり返っていた。本城早苗だった頃のあの女は、もっと悲壮感があった。だから、【私】として生きる以上は、本城早苗《それ》以下で生きるものだと思い込んでいた。けれど、男性はともかく、それ以上を【私】で手に入れていた。
あれが、私?
あれが私の人生の向こう側?
「そんなはずない!」
私は、執着の中に期待をしていた。
代わって背負ってくれているのではないかという期待。
反芻したくもないのに、警察の説明が蘇ってくる。
また、私を搦め捕る。
だって、
台所の包丁で、何度も自分のことを父は刺したのだから――。
致命傷と思える刺し傷と包丁の刺し傷との一致について、警察は歯切れの悪い物言いをしていた。それは、つまり私の犯行を隠す為に他ならない。
父の蒼白な顔が、思い止まった結果だと私は確信してしまった。そうじゃなかったら、あの剣幕で沈めたのだから、二度と生き返らないと思えるまで手を放さなかったはずだ。
(背負いきれない……)
どれだけの苦痛を父は息絶えるまで自身に下したのだろう。
あの瞬間に戻りたい。殺されてしまう結果でも構わない。
そうすれば、こんな苦しみを味わうことはなかった。
罪悪感に日々を蝕まれることもなかった。
私は、自首しようと何度も警察へ足を運んでいた。そうして、回れ右を繰り返していた。
『犯罪者になりたいの?』
『本当にそれでいいの?』
『何も悪くない』
『黙っていればいい』
甘い心の囁きに私は屈してしまう。
そうして鏡を見る度に出てくる言葉は、「ブッチャー……」
たまたまテレビを点けた時に知ったレスラー。
彼は凶器を持っていた。
相手は血を流していた。
でも、可愛いと思った。
だって、殺す気はないのだろうから。
私は、呟くようになっていた。
踏み止まれなかった自分を卑下して後悔して、慰めるように呟いていた。
それなのに――
怒りが込み上げてくる。あの女は、背負うどころか【私】で生き生きとしている。事情を知らなくても、今の私よりは日陰の存在であるべきはずだ。それなのに、あんなにも輝いている。
「許せない……」
そして、それと同時に、あの女に対する強い憧憬が、加速度的に増していっていた――
それからの十日間、私はあの女を観察し続けた。すると、【次】を探していることに気が付いた。
今、その相手《獲物》と喫茶店にいる。
私は唇を噛み締めた。理由はどうあれ、【私】を捨て去ろうとしていることに耐えられなかった。もっと素敵な【私】を見せて欲しかった。もっともっと【私】を綺麗にして欲しい想いが、縋《すが》るようにしてあった。
絶対に、捨てさせない――
絶頂に達したとき、私は歩き出していた。
相手の女が気が付いて視線を寄越したけれど、そんなものには目もくれず【私】の肩を鷲掴みにしようと手を伸ばす。テーブルにある檸檬色のハンカチを見つけて同じ手口かもしれないと嫉妬に狂う。怒鳴り付けてやろうと私は息を吸い込んだ。
Bメロのサビが来る。
一拍の間が入った。
(馬鹿にしないでよ!)
――この人は、どんな顔をするだろう。
私を見て、驚くのだろうか。
逮捕が過るのだろうか。
それとも……、喜ぶだろうか。
指先が、肩に触れた。
【私】が、振り返ろうとする。
フレーズは去っていたけれど、不思議と私は心地よさを感じている。
〈眩しい~了~〉