太陽に抱かれて
油絵というのは、実に馴染みがあるようで、全く油彩そのものを知らなかったのだと、ももはこの数日で思い知った。
まず、油絵の具だ。
日本では油彩を授業で扱う学校もあるだろうが、ももは水彩、あるいはアクリルガッシュを用いた絵しか描いたことがない。後者は乾くと耐水性がある特性はあるが、いずれも水で薄めることができるし、筆自体も水で洗うのが一般的である。
一方で、油絵の具はその名の通り油を使用する画材だ。なんとなくそうなのだろうと想像はしていたが、いつ、どのタイミングで油を使用するのか、また、どんな油を使っているのかはわからなかったももにとっては、ジヴェルニーの丘はいい課外授業になったわけである。
男がパレットに出した絵の具を小皿に用意した専用の油で薄めて使ったりする光景や、何種類かの油を使い分ける姿、はたまた前述したように、油の入った缶で筆を洗う姿などは、実に新鮮で新しい発見を彼女に与えた。
他にも、筆の種類の多さや、ペインティングナイフの使い方、そもそも、どういう姿勢で、どのようにして描いていくかも詳しく知らなかったのだ。挙げ出したらきりがない。
だが、中でも、絵の具の色に関しては特別、濃い印象を刻み込んだ。
それは、男が使っているの青にもさまざまな種類があり——これはこっそりアトリエで盗み見たのだが——それぞれ名前がつけられている、といこと。百聞は一見にしかず、とはよく言ったもので、たしかに彼女も、青が単なる青という言葉で括れるほど単純ではないとはわかっていたが、青の違いをしっかりとその目で認識したのは初めてだった。
男がよく使うのはセルリアンブルーという名前の絵の具だった。どちらかというと、緑がかった、青色だ。
それをパレットで色を混ぜてから使うこともあれば、カンヴァスの上で色を重ねることもある。 画家の手にかかると、ひとつの青は百の色に変化を遂げた。
それはまさしく魔術師のような偉業だとももは大胆にも思った。なぜならももにとっては、男がイメージどおりに——本当に彼のイメージどおりであるかはわからないが、きっと納得はしているのだろう——色を作ること自体が、とても高度な魔法のように思えたからだ。