太陽に抱かれて
ザアザア、薄暗いダイニングキッチンに、水の流れる音が響いている。
「さっきのは、剥離剤だ」
冷たい水の中で、ももの手を洗いながら男が言った。
「はくり、剤……」
「乾燥した絵の具を剥がすときに使う。テレピン油とは違って、絵の具自体を溶かす力がある」
油絵の具を溶解する力があるということは、かなりの強い液体だ。蓋を開けた瞬間、刺激臭がしたのも、皮膚が焼けるように痛いのも頷ける。
「手袋などで皮膚を覆って使うのが常識だ」
ちくちくと小言を寄越す男に、ももは、すみません、と小さく謝る。自分の手の甲やひら、それから指間部やはらや、余すところなくなぞる大きな手を見つめながら。
男の手は、ももの皮膚の何倍も分厚く、ガサついて、青や白、それから緑、そこかしこに絵の具がついたままだった。
「だが、私にも過失はある。君があそこにあるものに興味を持つのは、わかっていた」
頭上の鈍いライトのみが照らすダイニングに、男の低い掠れ声が響く。
先に言っておくべきだった、そう告げる声はどことなく涸れた印象を与えるが、ひどく艶やかった。
「そんなこと……」
抗えない成熟した魅力に唇を隠しながら、ももはかぶりを振る。
「わたしが、勝手に触ったから。本当に、ごめんなさ——」
伏せていた視線を上げた彼女は、濡れた唇をだらしなくも半開きにした。
すぐそばに、ダビデの彫刻のような横顔があった。その睫毛の繊細さや、瞳の色までも、はっきり認識できるほど、近くに。
斜めに差し込んだ橙の光に、精悍な横顔が照らされている。
色素の薄い睫毛に縁取られたヘーゼルの瞳。昼間は深い緑色のような煌めきだったのに、今は金色に近い。それから、高い鼻すじに、すっきりとした頬に、カサついた、こぶりな唇。
「とにかく、油彩の道具には、人体に悪影響を及ぼすものもある。あの液体がいい例だ。他にもテレピン油、ペトロール……詳しくは、また、説明する」
男が話す間も、半ば手のひらのジンジンとする痺れに浮かされたようなまなざしで、ももは男を見つめていた。
顎に広がる、およそ数日分と思われる髭。気難しそうな印象を濃くするが、それが、かえって、男の綺麗な顔立ちを男らしく見せては、彼女の白い喉元を疼かせた。
「……いいな?」
ウィ、ムッシュー、か細いももの声が、ザアザアと流れる水音に溶けた。
しばらく、ももはそのままだった。大きな手が自分の手の甲を撫でるたび、伏せた睫毛がライトに瞬くたび、ほのかに苦い香りが鼻を掠めるたび、目の奥に戦慄が走った。だが彼女は、じっと、じいっと男の横顔を見つめていた。そのこげ茶色の瞳を鈍く赤色に染めて、それこそ、陶酔に近いまなざしで。
いつからか、彼をそんな目で見るようになっていた。
彼女の視線を遮るものは、なにもない。
男は気づいているのか、いないのか。はたまた、気づいていながら、知らぬ素振りを見せているのか、流れる水をひたすら追いかけているだけだった。
「名前は」
やがて、その沈黙を破ったのは、男だった。
かさついた唇のゆったりとした動きに、疼きを強めながらも、ももはごくりと唾を飲み下して答えた。
「……モモです。モモ・イガリ」
あなたは? 次いで、訊き返す。
「シモン・ロンベール」
シモン……ロンベール……。ももは小さくその名を口の中で転がした。もちろん、ムッシューというのをつけるのを忘れずに。
シモン。
シモン。
シモン・ロンベール。
ムッシュー・ロンベール。
何度も何度も脳裏で繰り返した。それは、彼女を格調高き詩を諳んじるような心地にさせた。
「ムッシュー・ロンベールと呼んでも、構いませんか」
夢中になってこぼした吐息を搔き集めて、ももは言った。
この熱が伝わってはいないだろうか。ももは案じたが、シモンは動じるそぶりを微塵も見せることはなかった。
「どうぞ」
淀みなく告げる彼に、ももは唇を舐める。
アトリエに来たばかりの頃にも、投げられた言葉。だが、以前とは違う。少しばかり呆れを含んだような、微かに丸みを帯びた声にも聞こえた、
「ありがとう、ムッシュー・ロンベール」
流水で念入りに剥離剤が落とされた手のひらは、ヒリヒリとした感覚が薄くなっている。心なしか、胸の内にあたたかななにかがじんわりと滲んだ気がして、ももは魔法を唱えるように声を震わせた。
水を止め、ももの手をやさしくタオルで挟みながら、シモンは、どういたしまして、と顔色を変えずに言った。
ワックスの禿げたフローリングに、二つの影が伸びている。不思議と、ぴったり寄り添っているように見えた。